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266話「日没前」

◆◇◆


 プレアデス聖教国の客室に用意された窓は、磨き上げられた高価な硝子で覆われていた。


 シャウルはその窓枠に両肘を突き、不器用そうに丸めた両手で顎を支えながら、ぼうっと外の景色を眺めていた。


 アルキオネの空は、刻一刻とその色彩を変えていく。高高度特有の薄い雲がたなびく天界は、じわじわと落ちていく太陽の残光によって燃えるような茜色に染まり、その足元からは地の底の闇を混ぜ合わせたような不気味な紫色が這い上がってきていた。


 光と影が融け合うその境界線を眺めながら、シャウルはまとまりのない思考の海へと、深く沈み込んでいた。


(――前は、美味しいもののことだけ考えていれば、それでよかったのになぁ……。今は、考えることが、やけに多いっす)


 喉の奥から、小さく、掠れた溜息が漏れ出す。


 かつてヴァルゴ王国の薄暗い路地裏で、泥水をすすりながら他人の財布を掠め取って生きていた頃。あの頃のシャウルにとって、世界は驚くほど単純で、そして明快だった。


 自分か、あるいはそれ以外か。


 明日の朝、自分の胃袋を満たすためのパンをいかにして確保するか。冷たい雨風をしのぐための場所をどこに見つけるか。世界のすべてはその二点だけで完結しており、国家の命運も、ましてや"誰かのために傷つくこと"の意味も、何一つ考える必要はなかった。


 他人のことなど知ったことではない。自分が楽をして、美味しいものを食べて、ただ生き延びられれば、それでよかったのだ。


 それが今や、どうだろう。


 贅沢な調度品に囲まれた白亜の個室。ふかふかのベッド。主君であるノクティアから与えられた、過分なほどの温かな居場所。


 環境が変われば、心も変わる。それは生存のための変化だったが、今のシャウルにとっては、その変化こそが胸を締め付ける奇妙な痛みの原因になっていた。 


 シャウルは窓枠から身を引き、そのまま後ろのベッドへと倒れ込んだ。


 上質なマットレスが柔らかな音を立てて、彼女の華奢な身体を受け止める。天井に描かれた聖教国の緻密な模様を見つめながら、彼女は今朝の食堂での出来事を思い出していた。


 今朝の朝食の席。ノクティアの気遣いと、カノンのからかうような言葉。


 あの賑やかで、どこか安心する掛け合いの中で、シャウルは必死にレタスを口に詰め込みながら、胸の奥で燻る秘密の存在を必死に抑えていた。


 前夜、第二修練場の重い石扉の隙間から、ノクティアの放つ硝子の熱量を見ていた時。背後から現れた最高司教カリオペの甘く誘い。


 あの一言が、シャウルの心に深く突き刺さったまま、どうしても抜けない。


(……後ろめたいことなんて、何一つないはずっす。あたしが強くなれば、お嬢様だって、もっと、ずっと助かるはずっすから)


 ベッドの上で寝返りを打ち、用意されていた白い枕をぎゅっと両腕で抱きしめる。


 理屈は分かっている。自分が戦う力を手に入れれば、これからの帝国との戦争において、ノクティアの足手まといにならずに済む。それは間違いなく、ノクティアを助けるための、純粋な献身のはずだった。


 なのに、どうして朝食の場で、ノクティアの真っ直ぐな瞳を見た瞬間、その事実を素直に打ち明けることができなかったのか。


 なぜ心臓が口から飛び出るかと思うほどの後ろめたさに襲われたのか。


 その本当の理由に、今のシャウルは気づくことができないまま、ただ悶々と胸を焦がしていた。


 かつて、彼女の世界は自分という極小の点だけで完結していた。しかし、ノクティアに出会い、アルトやギエナ、ザラといった仲間たちと旅を続ける中で、彼女は自らの世界の懐に、自分以外の大切なものをあまりにも多く招き入れすぎてしまっていたのだ。


 その最たるものが、他でもないノクティア・グラスベルという一人の少女だった。


 お嬢様に心配をかけたくない。お嬢様に「無茶なことをするな」と反対されるのが怖い。あるいは、自分の弱さをこれ以上主君に晒したくないという、不器用な侍女なりのプライド。


 大切だからこそ、言えない。守りたいからこそ、隠し事をしてしまう。


 それは奇しくも、自らの主であるノクティアが抱えていた悩みと、驚くほど似通った、根を同じくする葛藤だった。だが、二人が今の時点で、その孤独を共有する術はどこにもなかった。



 ――コン、コン。



 その時、静かで、驚くほど規則正しいノックの音が、部屋の木扉を叩いた。


 それは決して住人を急かすような暴力性を孕んだものではなく、すべてを包み込み、許すような、不思議な静謐さを伴った響きだった。


 シャウルは枕を抱え込んだまま、ベッドの上で上半身を跳ね上げた。乱れた栗色の髪を乱暴に手で払いながら、路地裏育ちの警戒心を微かに滲ませて、廊下に向けて声を張り上げる。


「――誰っすか。鍵はかかってないから、開いてるから、入ってきていいっすよ」


 ギィ、と静かに重厚な扉が開き、室内に滑り込むようにして入ってきたのは、純白の美しい法衣を纏った最高司教、カリオペだった。


 そして、そのすぐ後ろの影には、白いヴェールを頭上から深く垂らしたリラが、まるで見えない使い魔のように、一言も発さずに音もなく控えていた。


「……カリオペ様。それに、リラ様も。どうしたんすか、こんな夕食の前の時間に」


 シャウルはベッドの端に腰掛けたまま、丸い瞳をさらに大きくして二人を見上げた。


 カリオペは、いつもと全く変わらない、慈愛に満ちた聖母のような優しい笑みを浮かべていた。


 その微笑みは、シャウルがずっと昔、王都の冷たい路地裏に置き去りにされ、飢えに震えていた頃に手放してしまったはずの、実の親の温もり――圧倒的な母性を、無意識のうちに彼女の魂の最深部へと想起させるものだった。そこにいるだけで、すべての罪が許され、肯定されるかのような、心地よい錯覚。


「ええ、夕食の前の慌ただしい時間に、急に訪ねてしまって申し訳ありません、シャウル様」


 カリオペは音もなく歩み寄り、シャウルのすぐ目の前でそっと足を止めた。彼女の法衣から、プレアデス特産の高貴な香油の匂いが微かに漂う。


「以前、回廊でお話ししたこと……覚えていますか? 無力なあなたを、大切な人の隣に立たせるための、戦う力を授けましょうという、あのお話です」


 忘れるはずがなかった。シャウルはその一言のせいで、今日一日、大好きなはずの食事の味すら満足に分からないほどに、頭を悩ませていたのだから。


「あなたが本当の力を手に入れるための、私たちからのお手伝い――。それを、今日、この後に行おうと思っておりますの」


「……この後っすか? 随分と、急っすねえ」


 シャウルは小さく首を傾げた。もうすぐ夕食の鐘が鳴る時間だし、何より、自らの人生を大きく変えるかもしれない秘儀に臨むには、あまりにも心の準備というものが足りていない気がした。


 カリオペは、シャウルのその子供のような戸惑いを受け止めると、上品に袖口で口元を隠しながら、くすくすと楽しげに笑った。


「ふふふ、歳を取るとね、どうにも生き急いでしまうようになるものなのですよ、シャウル様。なに、そんなに身構える必要はありません。……見れば、ノクティア様の"根源"の修行も、いよいよ終わりが近そうです。その前に……。あなたにも、その隣に並び立つための備えを与えてあげたいと、私はただ、そう思っただけなのです」


「お嬢様の修行が、もう終わる……」


 その言葉は、シャウルの胸の中で燻っていた焦燥の火に、一気に油を注ぎ込む結果となった。


 足手まといのまま、ここに置いていかれるわけにはいかない。シャウルは無意識のうちに、自らの最大の武器である"鼻"を、小さく動かした。


 カリオペの身体から漂ってくるのは、清浄な空気の匂いと――そして、ひたすらに純粋な、一点の曇りもない救済と慈愛の匂いだけだった。


 カリオペは、本気で、100%の善意を以て、力なき少女に救いの手を差し伸べている。その事実が、シャウルの嗅覚に直接流れ込んできた。


(……やっぱり、嘘の匂いは、これっぽっちもしないっす)


 ならば、これ以上迷う必要がどこにあるだろう。世界で一番偉い聖女様が、お嬢様のために力を貸してくれると言っているのだと、そう、シャウルは合点した。


「……そっか。それもそうっすね! お嬢様を待たせるわけにはいかないっす!」


 シャウルはベッドから勢いよく立ち上がると、自らの小さく、戦うためのタコもない拳を、力強く握り締めた。


「カリオペ様、あたし、行きますっす。その、あたしが戦えるようになるためのお手伝いってやつ、今からすぐにやらせてほしいっす!」


「ええ、本当によく言ってくれました、シャウル様。さあ、こちらへおいでなさい。あなたの新しい物語を、今ここで紡ぎ始めましょう」


 カリオペは優しく、我が子を導くように右手を差し伸べた。


その後ろに控えていたリラ・マイアが、白いヴェールの奥でふふ、と含み笑いを見せながら、音もなく客室の重厚な木扉を大きく開け放つ。


 シャウルは、その扉の先、夕闇の紫光が微かに差し込む白亜の廊下へと、迷うことなく自らの足を踏み出した。


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