265話「ゲームスタート」-後
しかし、その姿は、これまでの聖教国の幹部のそれとは、完全に一線を画していた。
神聖なる白亜のヴェールはどこかへと脱ぎ捨てられ、長い黒髪は後ろで一筋の隙もなく、極限までタイトにひっつめられている。身に纏っているのは、法衣ではなく、身体の肉感的なライン、そしてしなやかな筋繊維の動きを完全に剥き出しにする、漆黒と深紅のグラデーションが施された極薄のレオタード。
そして、その引き締まった両足の先には、大理石の床にコツン、と硬質な音を響かせる、異様な形状のトゥーシューズが履かれていた。
「へえ、なるほどね。バトル用の装いなんて、ちゃんと裏に用意してたんだ。みぃんな、教国の聖女サマはあの布切れを被りながらの、お上品な縛りプレイがお好みなんだと思ってたよん」
カノンはナイフを指先でクルクルと弄びながら、梁の上に立ち上がった少女を値踏みするように眺めた。
その衣装が意味するもの。ただの踊り子ではない。それは、自身の肉体を極限まで摩耗させ、死の舞踏を踊り続けるための、残酷な処刑人のドレスだ。
「……カノン・ドロテア=エメラルダ」
少女は、その切れ長の冷徹な視線をカノンへと真っ直ぐに向けてきた。
彼女の周囲の大気が、まるで凍りついた湖面のように、静かに、けれど圧倒的な圧力を持って凝固していくのが分かる。
「軽佻浮薄。……音に聞く"ドロシー"の逸話からは考えられないほどに、底の浅い、軽い人間ですね、あなたは。世界の理が反転しようというこの期に及んで、まだその不愉快な戯言を続けるつもりですか」
少女の声は、一切のイントネーションを排除された、刃物のような冷たさを帯びていた。
「友好的、って言いなよバレリーナ。お姉さん、これでも向こうの世界じゃ友達は多い方だったんだぜ? ま、大半はあたしの腕に群がってきた雑魚か、あるいはあたしに蹂躙される弱者だけどさぁ」
カノンは不敵な笑みを浮かべ、手にしたナイフをぽいっと虚空へ投げ捨てた。
「支離滅裂。付き合っていられません……自己紹介を。私は、プレアデス聖教国所属――"泥に塗れた湖の白鳥"セラエナ・レイク・オーディット。最高司教様の御心に従い、この世界の不純物であるあなたを、ここで完全に解体いたします」
"泥に塗れた湖の白鳥"。
そう名乗った彼女の背後から、ドロドロとした、濁った湖水を思わせる漆黒の魔力が、まるで翼の輪郭を描くようにして立ち上り始めた。白鳥、いや――それは自身の呪われた血によって羽を黒く染め上げられた、悲劇の魔力。
「――なあ、もうやめにしねぇ? そういうさぁ、前置きタラタラ垂れ流すの」
セラエナの自己紹介を遮るカノンの声から、一瞬にして、先ほどまでのふざけたような軽薄さが消失した。
彼女の瞳が、夜の闇の中で本物の"怪物"のそれへと変貌していく。一歩、カノンが足を踏み出すごとに、彼女の身に宿る"ドロシー"の出力が、プレアデスの結界を内側からメリメリと引き裂いていく。
「あたしさぁ、この退屈な国に連れてこられてから、ずーっと待たされててさぁ。そろそろ我慢の限界なんだわ。ノクティアちゃんは楽しそうに修行してるし、男性領の連中も派手に火を点けて遊んでる。なのに、あたしだけがこの高い柱の上で、あんたみたいな鉄面皮に睨まれて体育座り。……この意味、分かる?」
カノンの語気が、漸増的に、かつ圧倒的な質量を伴って勢いを増していく。大聖堂の外周に漂っていた夜霧が、彼女から放たれる狂暴な殺圧によって、一瞬で完全に吹き飛ばされた。
「あんた単体でもさ、後ろに隠れてる雑魚を全員呼び出してでも、この国の全軍でも、あたしは一向にかまわないわけ。……とっととやり合おうや、アヒルの子」
「……笑止千万、私はアヒルではありません。……やはり話にならない。これほどまでに刹那的で、享楽的で、暴力的で――」
「――んでもって魅力的、だろ!?」
カノンの叫びと同時に、世界の時間が完全に破裂した。
――ドォォォォンッ!!!
カノンは立っていた梁の足場を、その脚力だけで粉々に爆砕しながら、空間を真横に切り裂くような超高速の突進を仕掛けた。
彼女の右足、銀色の靴の先が、閃光となってセラエナの美しい喉元へと肉薄する。超至近距離からの、大気を圧殺するような狂暴なハイキック。
しかし、セラエナの肉体もまた、常軌を逸した駆動を見せた。
彼女はトゥーシューズの極小の先端だけで梁の上に完璧に静止したまま、上半身をあり得ない角度まで後ろへと反らし、カノンの蹴りの軌道をミリ単位で回避。直後、反らした反動をそのまま利用し、自らのしなやかな左足を、鞭のようにしならせて下方から蹴り上げた。
カノンの銀の靴と、セラエナの黒いトゥーシューズが、虚空の真ん中で真っ向から激突する。
――バチィィィィィィィィンッッッ!!!
大聖堂の外壁が激しく震え、大理石の柱の表面に無数の細かな亀裂が走るほどの衝撃波が炸裂した。
激突の瞬間、まるで夜空を覆っていた重苦しい雲が、二人の放つ凄まじい魔力によって強引に引き裂かれ、完全な星空がその姿を現した。
二人の周囲に、激しく、光が撒き散らされる。
それは、カノンの放つ銀の粒子と、セラエナの身体から溢れ出した、まるで呪われた白鳥の羽のような、純白の、けれど禍々しい魔力片。
銀と羽が混ざり合い、夜の回廊に、残酷なまでに美しい舞踏の舞台が瞬時に形成されていく。
一度剣を合わせ、互いに弾け飛ぶようにして、カノンとセラエナは十数メートル離れた別の列柱の上へと着地した。
カノンは、自らの銀の靴の表面に付着した、セラエナの漆黒の魔力を指先で払うと、狂気的なまでの歓喜の笑みをその顔一面に浮かべた。
「あははっ! いいねぇ、楽しめそうじゃん、あんた! プレアデスの聖女サマが、こんなに良いモンを持ってるなんてさぁ!」
カノンは再び、自らの身に宿る魔力を最大まで練り上げた。彼女の背後に、歪んだシルエットが、緑色のオーラとなって微かに浮かび上がる。
「んじゃあさ、お互い面倒なルールは無しってことで。――一本先取、時間無制限。どちらかの命が、完全にゼロになって塵に変わるまで――よろしくね、可愛い子ちゃん!!」
「――一網打尽。……お望み通りに、ここであなたの物語を絶たせていただきます」
セラエナはトゥーシューズの先で、再び優雅に、そして冷酷なステップを刻む。
応えるように、カノンも靴を輝かせ、地面を蹴って宙に舞った。
晴れた月下の聖教国にて、死の舞踏が幕を開ける――。
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