265話「ゲームスタート」-前
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白亜の都アルキオネを包む夕闇は、まるで沸き立つ紫のインクのように、急速に大聖堂の外周を侵食していった。
大理石の列柱が形作る規則正しい影の並び。その一本、地上から十数メートルはあろうかという高い梁の上に、カノンは仰向けに寝転んでいた。
片膝を立て、もう片方の足を虚空へとぶらつかせる。指先で手持ち無沙汰に弄んでいたのは、適当な壁面から剥ぎ取った、片手で掴める程度の大きさのタイルだった。
彼女はそれをコインのように親指で弾き上げ、手の甲でキャッチする動作を退屈そうに繰り返していた。
それは、かつて彼女が元の世界にいた頃――カノンと呼ばれる前の誰かであった頃からの、百年抜けない癖だったのだが、やがてその動きをピタリと止める。
大聖堂の敷地内、幾何学的に配置された回廊の各所で、白い法衣を纏った信徒たちの動きが、明らかに不自然な熱を帯び始めていたからだ。
彼らは声を交わすこともなく、しかし極めて迅速に、特定の通路を封鎖し、あるいは武器の入った長箱を物陰へと運び込んでいく。それは長年、戦場という名の不条理な盤面を見てきたカノンにとって、見間違えようのない開戦の予兆だった。
「……お、ようやっと始まったかぁ。全く、お姉さんをどんだけ待たせてくれるじゃん、プレアデス聖教国サマはさぁ」
カノンは小さく唇を歪めると、寝そべっていた身体をバネのように跳ね上げ、ゆっくりと列柱の細い足場の上に腰を下ろした。
ふぅ、と夜の冷たい空気を肺に吸い込み、肩を回して骨を鳴らす。
彼女は、教国がその腹の底に、一物を抱え込んでいることに、最初から気がついていた。
百年を生きた"姫"の中に、その程度で驚くような初心な者は一人もいない。
(ま、連中が裏でゴソゴソやってんのは織り込み済みだしね。……男性領に向かわせたザラちゃんは、上手くやってるかねぇ。あっちの居残り組も、そろそろボスクラスとエンカウントしててもおかしくない時間だけど)
カノンは視線を大聖堂の巨大な尖塔へと這わせた。
このアルキオネの中心部、最も濃密な魔力の澱みがとぐろを巻いている場所。そこに、今朝の食堂で妙に上の空だった少女の姿があるはずだった。
(――最高司教の狙いは、明らかにシャウルちゃんだ。ま、あたしが運営でも、同じように駒を動かすだろうけどさ)
"根源"を手にしたノクティアや、あるいは歴戦の"姫"である自分に直接手を出すような愚を、狡猾な連中が犯すはずがないと、カノンは確信していた。
下手に最上位の戦力を刺激すれば、聖教国という土地そのものが、ノクティアの"硝子の翼"とカノンの"銀の靴"によって、文字通り灰燼に帰すことになる――否、カノン自身は、そんな温い結末では絶対に済ませようとしないだろう。
徹底的に弄び、破壊し、殺戮し――その過程でもしかすると、ノクティアとも再びぶつかり合うかもしれない。どうあれ、双方の損耗は甚大なものになる。
しかし、シャウルは違う。
彼女には、世界を書き換えるような特別な魔法も、敵の首を撥ね飛ばすような強靭な肉体もない。ただの一般人。戦闘訓練は多少受けていようと、ただの、よく食べるだけの侍女だ。
そんな無力な存在を一度教国の最深部へと誘い込み、物理的に、あるいは物語的に捉えてしまえば、人質としてノクティアの動きを縛るための強力な枷としてでも、何にでも使い道はいくらでもある。
(ま、問題はさぁ……。その"使い道"ってやつが、あたしの最悪な想像通りだった時のことなんだけどさ)
カノンは立ち上がり、列柱の細い縁に両足を揃えて立った。
彼女の身に宿る"ドロシー"の物語が、不穏な気配の訪れと共に、静かにその輪郭を鋭利に変えていく。銀色の靴の表面が、紫の月光を反射して怪しく明滅していた。
ともあれ、教国は明確に牙を剥いた。盤面は反転し、すべてのNPCが敵対赤ネームへと変わったのだ。
カノンにも、この白亜の都を壊滅させるための正当な戦う理由が生まれ、そして、今まで彼女の行動を縛っていた、戦ってはいけない理由は綺麗さっぱり消滅した。
となれば、あとは簡単だ。
ヴァルゴ王国において、アルフェッカから直々に依頼された、王国特使団の護衛という最高の名目を振りかざし、合法的にこの聖域を蹂躙して回るだけ。問題は――。
「雑魚信徒どもは、いくら束になって薙ぎ倒したって、お姉さんの腹は満ちないんだよねぇ。経験値的にも美味しくないし。……ここはやっぱ、あのクールなエレクトリアちゃんか、あるいはあの不気味なクソ鳥あたりを引き摺り下ろすのが正解ルートかねぇ――」
カノンが不敵な笑みを浮かべ、梁から地上へと飛び降りようと、膝を僅かに屈み込ませた――まさに、その瞬間だった。
――ヒュッ、と。
極限まで圧縮された殺気の風切り音が、カノンの背後、完全な死角から飛来した。
漆黒の闇に紛れて放たれたのは、三筋の細身の投擲ナイフ。それは一切の躊躇なく、カノンの延髄、背骨、そして後頭部を正確に貫く軌道を描いていた。
しかし、カノンは振り返ることすらしない。
彼女は、まるで背後に三つ目の眼があるかのように、身体を紙一枚の隙間で横へと傾けた。背骨と延髄を狙った二条の刃が、彼女の服の裾を僅かにかすめて虚空へと通り過ぎる。そして、最後の一筋――後頭部、いや、頭部の傾きによって軌道がずれた、右の眼球へと一直線に迫った最後のナイフ。
カノンは、それを自身の右目の、睫毛すらも触れんばかりの超至近距離で、こともあろうに親指と人差し指の二本だけで挟み、受け止めてみせた。
「――ああ、そういやさぁ。あんたがずっと、ストーカーみたいにあたしの後ろにくっついてたんだっけね」
カノンは挟み込んだナイフの感触を確かめながら、ゆっくりと首だけを後ろへと巡らせた。
背後の梁の上。
そこに立っていたのは、数日間、影のように自分の行動を監視し続けていた、あの鉄面皮の聖女だった。




