264話「神亡き信仰」
背中から生えた四枚の硝子の翼のうち、右側の二枚を根本から鮮やかに切り裂かれ、その実体なき質量がサラサラと光の塵となって大気へ溶けていく。
痛覚はない。けれど、自らの物語の一節を強引に破り取られたかのような喪失感と、魔力の拒絶反応が、私の全身を鋭く駆け抜けていた。
私はレイピアの柄を強く握り直し、床を滑るようにして僅かに姿勢を低くした。
視線の先、シャウルが滞在しているはずの客室への扉。その前に立ち塞がるエレクトリアは、手元に戻ってきた銀のトレイを愛おしげに指先でなぞりながら、相変わらず感情の読めない、無色の双眸で私を見つめている。
「……エレクトリア。私、今、もの凄く急いでいるの。そこをどいて、その扉を開けてもちょうだい」
私は努めて声を荒らげず、けれど明確な殺意と警告を込めて言い放った。
胸の奥で燻る熱が、私の銀髪を激しく陽炎のように揺らめかせている。夜が深まるにつれ、私の"シンデレラ"は出力を増し、失われた右翼の痛みを補うように、左側の翼がより濃密な高熱の硝子流体となって波打ち始めていた。
「申し訳ございませン、ノクティア様。それハ、無理でス」
エレクトリアの返答は、やはり機械のように淡々としていた。
「どうして無理なの? あなた、最高司教がシャウルに何をしようとしているか……あのお気楽で、戦う力もない私の侍女を呼び出して、何をしようとしているのか、本当は知っているんでしょう?」
カリオペの目的。プレアデスの潔癖な街並みの裏に潜む、何らかの背景。
それを、この教国でも指折りの実力者である彼女が知らないはずがない。私は彼女の冷徹な仮面を剥ぎ取ろうと、言葉の刃を投げかける。
「知っていようト、いなかろうト」
エレクトリアは、私の言葉に眉一つ動かさなかった。
それどころか、彼女は手にしていた銀のトレイを、今度は両手で包み込むようにして厳かに構え直した。彼女の細い身体から、先ほどまでとは比較にならないほどの、文字通り私の首をその場で撥ね飛ばさんとする強烈な殺圧が膨れ上がってくる。
「どちらでもいいことなのでス、ノクティア様。最高司教様の意図ハ、私には知らなくていイ。その狙いモ、目的モ、私にはわからなくていイ。たダ、あの御心ニ、何があろうと寄り添ウ――それガ、私にとっての"信仰"なのですかラ」
「……信仰、ね」
私は彼女の言葉を反芻し、僅かに視線を泳がせた。
――会話を、続けなければならない。
私は冷徹に、おのれの脳内で戦術の盤面を計算していた。
この二日間の夜、私はこの女に幾度となく叩きのめされてきた。彼女の実力は、身に染みてよく知っている。"根源"の力を手に入れ、高熱の硝子をどれほど自由に行使できるようになろうとも、彼女の放つ魔法の前に、私の攻撃はことごとく無効化され、解体されてしまうのだ。まともに正面からぶつかれば、今の私では攻めきれない可能性が極めて高い。
だからこそ、対話が必要だった。
言葉を交わすことで、戦闘開始までの時間を一秒でも引き延ばす。彼女の佇まい、魔力の流れ、呼吸の周期を観察し、あの完璧な防衛に僅かでも付け入る隙を見つけ出すために。
「大した忠誠心だわ、エレクトリア。……でも、一つ聞かせて頂戴。あなたは、私たちが向こうの世界にいた時から、そんな風に神を、絶対的な存在を信じて生きていたの?」
私は彼女の背景を揺さぶるつもりで、あえて前世の記憶に触れる質問を投げかけた。
しかし。
返ってきた答えは、私の予想を根底から覆す、あまりにも奇妙で、違和感に満ちたものだった。
「――まさカ」
エレクトリアは、ヴェールの奥で、微かにフッと自嘲気味に唇を歪めた。
「信じてなどいませんヨ。神の存在なド、ただの一度モ」
「……信じて、いない? いなかった、ではなくて?」
私は思わず目を見開いた。彼女の言葉の時制。
過去形ではなく――現在進行形。
「えエ、そうでス。私はあちらの世界にいた時かラ、神などという都合の良い概念を信仰していたことはありませんシ、この世界に転生シ、聖女などという大層な椅子を与えられた今でモ――そしテ、これからモ、神を信仰することなど万に一つもないでしょウ」
「矛盾しているわ、エレクトリア。神を信じていないというあなたが、なぜさっき、カリオペの御心に寄り添うことが自分の信仰だなんて口にしたのよ」
「別ニ、人が信仰するのハ、天にましますカミサマだけではないでしょウ」
ギラリ、と。
エレクトリアの怜悧な銀色の瞳が、夜の紫光を反射して、さらに鋭く、残酷な輝きを帯びた。
「あなたモ、この世界に来テ、あの"門"の試練を越えたのならわかるでしょウ」
エレクトリアの一歩が、大理石の床を冷酷に踏みしめる。
「私たちは経緯こそ違えド、あちらの世界で一度、自らの物語を強制的に終わらせましタ。……死んだのですヨ、私たちハ。その今にも周囲を焼き尽くさんとすル、あなたの煮えたぎるような"根源"の熱を見るニ……。ノクティア様、あなたも決しテ、畳の上で安穏な死を迎えたわけではないでしょウ?」
「……ッ」
私は、その言葉に、息を詰まらせた。
言葉を返そうとした唇が、場を支配する圧倒的な拒絶の前に、言葉を失って震える。
私の胸の奥に、かつて引き千切られたはずの前世の記憶――"こはる"だった頃の最期の光景が、生々しいフラッシュバックとなって蘇る。
立ち込める黒煙。視界を覆う、真っ赤な炎の壁。
熱い、息ができない、誰か助けてと叫ぶ私の声。そして、私のすぐ側で冷たくなっていった、最愛の妹の、潰れて飛び散った脳漿の感触。
安穏な死なわけがない。
私は、絶望の炎の中で、自らの無力を呪いながら、すべてを灰にされて死んだのだ。その怨嗟と未練が、今の私の"硝子の翼"となり、熱となってこの世界に顕現している。
それは、エレクトリアも同じなのだ。彼女の放つ、あの冷酷なまでにすべてを断ち切る魔法の根底にも、あちらの世界で迎えた、凄惨極まる死の物語が横たわっているに違いない。
「――神は不在なのでス」
エレクトリアの声が、回廊の壁に冷たく反響する。
「あちらの世界でモ、この世界でモ、神などという救いハ、もうずっと昔からどこにも存在しなイ。もしも本当に神がいるのなラ、私たちはあんな理不尽な死を迎えなかったシ、我々の悪徳が許されるはずもないでしょウ。神ハ、私たちを最初から愛してなどいないのですヨ」
彼女の言葉には、この世界の構造そのものに対する諦念があった。
あるいは、諦めたのは――彼女自身の、人生についてか。
「だからこソ……他に何カ、目に見えル指標を信じて生きなけれバ、人ハ、一度壊れた私たちハ、精神の形を保って生きていけないのでス」
「……なら、あなたは何を信じて生きているというの? カリオペの操り人形になることが、あなたの信仰だというの!?」
私は叫んだ。
会話による隙の捜索は、もう限界だった。彼女の言葉には一切の迷いがない。神を否定し、世界を呪いながらも、カリオペという絶対的な存在に身を委ねることで、彼女はおのれの精神の崩壊を防いでいるのだ。
その信仰は、神を信じる生半可な狂信よりも、遥かに強固で、遥かに強大だった。付け入る隙など、最初からどこにも存在しない。
ならば、答えは一つだけ。
私の問いかけに対し、エレクトリアは、それ以上言葉を重ねることはしなかった。
彼女はただ、両手に持った銀のトレイを、自らの胸元で滑らせるようにして、はっきりとした、一分の隙もない戦闘態勢へと移行させた。
ヴェールが夜風に揺れ、彼女の纏う白い法衣が、怪しく紫の月光を吸い込んでいく。
「――さァ?」
彼女の唇が、不敵に、そして一人の戦士としての歓喜を孕んで、吊り上がった。
「私の信じるものが偽りかどうカ……知りたけれバ、その自慢の硝子の翼デ、私の口を割らせてみなさいナ。ノクティア様」
――フッ!!!
言葉の終わりと同時に、炸裂するような風切り音。
エレクトリアの細い腕が、物理法則を無視した速度で一閃された。
彼女の両手から放たれたのは、磨き上げられた鏡面のような光沢を持つ、あの呪われた銀のトレイ。
それは直線的に私の喉元を狙うのではない。回廊の巨大な列柱の間を、バキバキと音を立てて激しく乱反射しながら、予測不能な三次元の軌道を描いて、超高速で私へと肉薄してくる。
銀盤が通り過ぎた大気が、強制的に魔力の整合性を断ち切られ、真空の刃となって弾けていく。
「――来なさい、エレクトリア……ッ!!」
私は叫び、残された左側の二枚の硝子の翼を、爆発的な出力を以て羽ばたかせた。
床一面の白大理石が、一瞬にして数千度の高熱を帯びた硝子の津波となって一斉にせり上がる。
避けるのではない。
躱すのでもない。
あの子を、シャウルを救い出すために、私はこの聖教国最高の盾を、真っ向から粉々に打ち砕いて前へ進む。
光と熱、そして断絶の呪いが激突する、プレアデス聖教国の最深部。私とエレクトリアの、命のすべてを懸けた本物の死闘の幕が、今、苛烈に切って落とされた。




