262話「その手から零れて-後」
「……え?」
私は部屋の中に足を踏み入れ、唖然とした。
いつもなら、すでに席についているはずのミラクや、神出鬼没のカノンの姿もない。
ただ、部屋の隅に、何人かの信徒たちが微動だにせず、壁の飾りのように控えているだけだった。
私は胸の内に広がる言いようのない不快な胸騒ぎを抑え込みながら、近くに控えていた給仕服の信徒の一人に近づき、努めて冷静な声を保って問いかけた。
「……まだ、誰も来ていないの? ミラクやカノンはどこかしら」
問いかけられた信徒は、表情一つ変えず、ただ深く一礼して答えた。
「ええ、ノクティア様。今宵はあなたが最初のお着きでございます。他の方々は、少々用事が長引いておられるようで」
「……そう。なら、私の従者は? シャウルはどこにいるの?」
私のその質問に、信徒の眉が、ほんの一瞬だけ、ピクリと不自然に跳ね上がった。
「シャウル様におかれましても、最高司教様のお手伝いへ向かわれております。間もなくお戻りになるかと。ノクティア様は、どうぞお先に食事をお楽しみください」
「最高司教様の、お手伝い……?」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳内で、すべての違和感の歯車が、最悪の回転速度で噛み合った。
(嘘よ。……絶対に、あり得ない!)
冷静を装っていた私の表情が、一気に凍りつく。
シャウルが、食事の時間を無視して最高司教の手伝いに向かう?
あの、誰よりも食い意地が張っていて、夕食の鐘が鳴る一時間前から厨房の周りをうろつき、「今日のおかずは何っすかねぇお嬢様!」とがっついているあの子が、目の前に並べられたご馳走を放り出して、大人しく労働に従事しているなど、天地がひっくり返ってもあり得ない話だった。
『――大事なものは、ちゃあんと見ておきなよ』
リラの声が、耳の奥ではっきりとリフレインする。
そうだ。私が、信頼しきっているがゆえに、自分が見ていなくとも大丈夫だと完全に目を離してしまっていた、私にとっての無防備な、一番近くにある大事なもの。
シャウル。
今朝、レタスを噛み締めながら、私に何かを隠すように視線を泳がせていたあの子の横顔。
「シャウル……っ!!」
言いようもない恐怖と激しい焦燥が、私の全身の血液を沸騰させた。食事に手を付けることなどできるはずがない。私は給仕の制止の声を完全に無視し、身を翻して食堂の扉へと向かって全力で飛び出した。
バァンッ!! と、食堂の重厚な扉を強引に押し開け、回廊へと飛び出す。
シャウルの部屋へ、あるいは最高司教のいる聖堂の深部へと駆け抜けようとした私の足は、しかし、次の瞬間に完全な停止を余儀なくされた。
「……っ!?」
開け放たれた扉の先。
そこは、先ほど私が通り抜けてきた、あの静寂の回廊ではなかった。
白亜の長い回廊を、埋め尽くすようにして立っていたのは――普段の平穏な法衣ではなく、鈍い銀色の胸当てを身に纏い、その手に鋭利な長槍や弩を構えた、武装したプレアデスの信徒たちの兵列だった。
その数、数十、いや、百を超える。彼らは完全に組織化された陣形を組み、私の退路を、そして前進の道を完璧に封鎖していた。
――罠。その一文字が、頭を過る。
先頭に立つ、一際立派な甲冑を纏った騎士階級の信徒が、長槍を斜めに構えたまま、私に向けて冷酷に、けれどどこか事務的な調子で語りかけてきた。
「――ノクティア様。どうか食堂にお戻りください。もしもお食事が進まぬのであれば、自室でお休みいただいても構いません。我々は、あなたを害する意図はございません」
「……そうはいかないわ」
私は激しい怒りのままに、自らの声を低く響かせた。
害する意図がない、だと? 武装した兵士で廊下を埋め尽くしておいて、よくもそんな白々しい嘘が吐けたものだ。彼らは私をここに足止めし、その間にシャウルの身に、あるいは私たちの仲間に、何か取り返しのつかないことを仕掛けようとしている。
プレアデス聖教国。美しき聖域の皮を被った、多くの物語の墓場。
彼らが私――ノクティア・グラスベルを、恐らくはその墓石の下に納めんとするかのように、今まさに動き出したということだろうか。
「一体、どういうつもりなの? 私を誰だと思っているのよ。ヴァルゴ王国の特使をこのように監禁する行為が、何を意味するか分かっているのかしら!」
「我々はただ、最高司教様の指示に従うのみ。……ノクティア様、重なる警告をお許しください。引き下がりなさい」
信徒たちの槍の切っ先が一斉に下がり、私の一歩先へと向けられる。無機質な殺意の波。
だが、私の中にあったのは、恐怖ではなかった。
この日のために、私はあの過酷な修行を、砕かれ、溶かされるような夜を越えてきたのだ。
守られるだけの無力な姫の時間は、もうとっくに終わっている。
「……引き下がるのは、あなたたちの方よ」
私は覚悟を決め、自らの胸の奥に眠る、臨界点に達した熱を一気に解放した。
――パキパキパキパキッ!!!
凄まじい硬質な破砕音が、回廊全体に木霊した。
私の足元から始まった波紋が、周囲の美しい白大理石の床を、壁を、天井を――瞬く間に、冷酷で、鋭利極まる流動する魔法の硝子へと書き換えていく。美しい彫刻も、教国の聖紋も、すべてが私の物語の色へと上書きされ、硝子の鏡面へと変貌していく。
その硝子の中央。私の背中から、二対の、高熱を帯びてドロドロと溶けた硝子の翼が、爆発的な魔力と共に顕現した。
ゴォォォッ!! と吹き荒れる焦熱の熱波が、武装した信徒たちの鎧を瞬時に熱し、彼らの顔に明らかな動揺を引き摺り出す。
私はレイピアを抜き放ち、その硝子の刃を信徒たちの先頭へと真っ直ぐに向けた。
瞳は冷徹な緋色を帯び、空間のすべての主導権を、私の手の中に強引に引き寄せる。
私は彼らを射抜くように睨みつけ、考えうる限り最大の拒絶を宣告した。
「……そこをどきなさい。零時の鐘を越えたくば――」
夜は私の領域だ。
お嬢様と呼んで私を慕う、あの馬鹿な従者を傷付けようとするのなら、私はこの美しき聖教国を、その筋書きごと粉々に砕いてみせる。硝子の羽撃きが、戦火の始まりを告げるように、回廊の闇を激しく照らし出した。




