262話「その手から零れて-前」
窓の外、アルキオネの街並みが、重々しい夕暮れの残光に沈んでいく。
プレアデス聖教国の最高峰に位置するこの聖域は、太陽が傾くにつれて、その白亜の美しさを妖しい紫色へと変えていく。まるで、美しき聖女の肌に浮かび上がる、隠しきれない毒の血管のように。
私は自室の窓辺に凭れ、冷えていく硝子に額を押し当てながら、今朝、あの長い回廊でリラ・マイアに告げられた言葉を、幾度となく反芻していた。
『――大事なものは、ちゃあんと見ておきなよ』
間延びしたいつもの道化の如き口調の中に、一瞬だけ混じった本物の地声。冷徹な警告の響き。
目を閉じるたびに、あの白いヴェールの奥から向けられた見えない視線が、私の魂をチリチリと灼くような感覚を覚える。
「……大事なもの、か」
私は小さく呟き、自らの手のひらを見つめた。
私にとって、命を懸けてでも見続けなければならない、守らなければならない"大事なもの"とは、一体何なのだろう。
最初に思い浮かぶのは、私の過去そのものである妹――こはるの姿だ。
けれど、あの最愛の妹は、もう私のこの手からは永遠に零れ落ちてしまった。元いた世界の、あの焼け落ちた生家で、私は彼女の死を、そして彼女の遺した残酷な愛を完全に受け入れた。過去の亡霊は、もう私の手を引いてはくれない。
ならば、今、この旅を共にする仲間たちだろうか。
アルト、ギエナ、ザラ。確かに彼らは私にとってかけがえのない、失いたくない人々だ。
けれど、私は彼らを守るべき弱者だとは思っていない。それよりも遥かに強く、深く、彼らの力を信頼している。私が一瞬たりとも目を離さずに監視していなければ、どこかで呆気なく命を取り落とすような、そんな柔な面々ではない。彼らはそれぞれに強い意志を抱き、おのれの足で地獄を歩み抜ける強者たちだ。
特に、カノンに至っては、心配するだけ時間の無駄とすら言える。
「なら……リゲル? ミラク? それとも、ヴァルゴ王国や、同盟を結んだ国の人たち……?」
そこまで考えて、私は思考の泥沼に嵌まり込み、眉間を押さえて頭を抱えた。
今の私には、守るべきもの、裏切りたくないもの――すなわち"大事なもの"が、いつの間にか増えすぎてしまっているのだ。
一国の特使として、一人の"姫"として、世界を巻き込む大戦の渦中に立たされている。私の視界に収まりきらないほど多くの命が、私の選択の行く末にぶら下がっている。
「駄目だわ……考えても、考えても、答えに辿り着かない」
リラは私よりも遥かに遠くを見据えている。百年前のから、この世界で生き延び、恐らく世界の裏までを知り尽くしている彼女だ。であれば、あの思わせぶりな忠言には、私がまだ気づいていない、決定的な何かが隠されているはずだった。
私が何かを見落としている。その確信に近い焦燥が、私の胸の奥で、モヤモヤとした気持ちが溜まっていく。
――トントン、と。
そんな中、静寂を破るように、不意に部屋の木扉が小さくノックされた。
私は弾かれたように顔を上げ、乱れた髪を指先で整えながら声をかける。
「……いいわよ、どなたかしら?」
「ノクティア様。夕食のお時間でございます」
扉の向こうから聞こえてきたのは、プレアデスに仕える若い女性信徒の声だった。抑揚のない、まるで訓練された人形のような、清廉で無機質な声音。
「わかったわ。すぐに行くわ」
私は短く返事を返し、窓辺から離れた。
これ以上、自室で一人で考え込んでいても仕方がない。カノンやミラクと顔を合わせれば、何か状況が変わるかもしれない。私は自らにそう言い聞かせ、重い扉を開けて廊下へと足を踏み出した。
一歩、廊下に出た瞬間。
私は、周囲を支配する大気の密度が、今朝までとは明らかに異なっていることに気づいた。
「……やけに、静かすぎるわね」
私は周囲を見回しながら、緩やかな足取りで食堂へと向かう。
プレアデスの大聖堂は、いつもならこの時間帯、夕刻の祈りを捧げる信徒たちの低い唱名や、賛美歌の練習に励む少女たちの清らかな歌声が、石壁のどこからか必ず響いてくるはずだった。あるいは、白い法衣を翻して忙しそうに行き交う、神官たちの靴音が。
けれど、今の回廊には、何一つ音がなかった。
大理石の床に響くのは、私のブーツの足音だけ。壁に嵌め込まれた燭台の炎さえも、まるで息をひそめるようにして、微動だにせず冷たく燃えている。
世界から完全に音が切り離されたかのような、不気味な空白。
まるで、都全体が深い、底の知れない眠りに落ちているかのような――あるいは。
(全員が、息を殺して私を見張っているかのような……)
冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。
私は自らの胸にそっと手を当てた。太陽が完全に地平線の彼方へと沈み、プレアデスの夜が始まったことで、私の宿す"シンデレラ"の魔法が、本来の出力を取り戻し始めている。身体の芯がチリチリと熱を帯び、背中の奥で硝子の結晶が脈動を始めるのが分かる。
今は夜だ。何かがあっても、対応できるはず――。
「……なんてね。ただの考えすぎよ」
私は自嘲気味に呟き、首を振って思考を強引に打ち切った。修行の疲れが溜まっているのだろう。エレクトリアとの過酷な正面戦闘によって、私の精神は思った以上に過敏になっている。
そう自分を納得させながら、私は食堂の重厚な両開きの扉の前に立ち、その取っ手に手をかけた。
ギィィ、と静かな音を立てて、扉が開く。
室内に広がっていたのは、白亜の長机に並べられた、豪華な夕食の数々だった。教国特産の瑞々しい野菜、香ばしく焼かれた肉料理、湯気を立てるスープ。
けれど。
その贅沢な食卓を囲むべき椅子には、誰一人として座っていなかった。




