261話「白銀の鎧」
焦土と化した"遺棄層"のただ中で、その異常に誰よりも早く、本能のレベルで気づいたのは、ギエナだった。
彼は大戦期において、その名を大陸全土に轟かせた英雄の一人である。
しかし、彼は決して、物語に描かれるような無鉄砲な突撃精神や、誇り高き勇猛さ"だけ"でその地位に成り上がったわけではない。むしろ、"砂の鬣"の本領は、その強靭な肉体と、狡猾な策謀の裏に隠された、あまりにも繊細で、病的なまでに研ぎ澄まされた"臆病さ"にこそあった。
(何かが来る。……いいや、もうそこにいやがる!)
ギエナの脳内で、生存本能が狂ったように鐘を打ち鳴らしていた。
大戦期、彼の周囲にいた"本物の英雄"たちは、その多くが名誉のために命を投げ出し、あるいは己の無敵を信じて引き際を誤り、どこかの泥の中で命を取り落としていった。
歴史書のインクの染みとなって消えていった彼らと、今の自分を分けたもの。それこそが、この泥臭くも汚い怯懦だった。臆病だからこそ引き際を見誤らず、臆病だからこそ敵のわずかな殺気の変転を察知し、生き残り、結果として名を残すことができたのだ。
「――ッ!!」
ギエナは言葉を発する余裕すらなく、喉の奥で獣の咆哮を上げながら、今しがた解除したばかりの魔法を再び強引に発動させた。
彼の肉体が爆発的な魔力に包まれ、再び獅子の輪郭へと膨れ上がる。剛毛が逆立ち、牙が剥き出しにされる。
そのギエナの尋常ではない即座の戦闘形態への移行。
それを見たアルト、バナビー、そしてザラの三人は、何が起きているのかという理由を視覚的に理解するよりも早く、一瞬の遅れを伴って一斉に完全な警戒態勢へと入った。
なぜ彼が怯えているのか、何が迫っているのかは分からない。しかし、あの歴戦の傭兵がここまで取り乱して爪を剥くのであれば、そこには確実に、自分たちの命を瞬時に刈り取りにくる"何か"が存在している。それは、ある種の言葉なき信頼だった。
そして――彼らのその刹那の連動は、正しく、最悪の形で功を奏することとなった。
漆黒の亀裂の奥から、白煙を押し分けるようにして、ひとつの足音が響いたのだ。
カツン、と。
それは、融解して硝子状になった地面を、硬質な鋼鉄の具足が静かに踏みしめる音だった。
「――ぼくをおこしたのは、だれだい」
響いたのは、どこか幼さを、あるいは一切の感情を剥ぎ取られた人形のような無機質さを孕んだ、奇妙な少年の声だった。
白煙の帳が、その存在の放つ圧倒的な魔圧によって強引に左右へと退けられた。
現れたのは、頭部から足先にいたるまで、一切の隙間なく全身を覆い尽くした、目も眩むような白銀色の全身鎧だった。
その鎧のシルエットは、極めて異質だった。
表面には、プレアデス聖教国の最高技術で彫り込まれたような、精緻で神秘的な聖紋の意匠が至る所に施されている。しかし、その全体の輪郭は、機能美を極限まで追求した、まるで帝国が戦場に投入する工業製品のような、冷酷で無骨な重量感を醸し出していた。
神聖さと、大量破壊のための暴力。その二つの相反する概念が、一つの白銀の器の中に完全に融合している。
何より異常だったのは、その全身鎧から滲み出している、大気を物理的に圧殺するほどの魔力の質量だった。
先ほどまでの"青ひげ"の狂暴な魔力が"濁流"だとしたら、この白銀の鎧から放たれるものは、一滴触れれば肉体が内側から凍りつくような、極限まで圧縮された絶対的な真空のようだった。吸い込む息が、冷気となって肺を刺す。
「――何者ですかい、こいつぁ……!」
ギエナは獅子の姿のまま、低い唸り声を上げながら爪を構えた。その毛並みが、相手の放つプレッシャーによってビリビリと静電気を帯びたように震えている。
「……申し訳ございません。私にも皆目、見当が……!」
バナビーが、再び鏡の大盾を強引に拾い上げ、自らの前に掲げながら悔しげに歯を食いしばった。聖教国の暗部について調査を重ねていた老騎士の知識にすら、目の前の白銀の怪物の情報は存在していなかった。
アルトもまた、限界を迎えて右目を閉じ、激痛に耐えながらも、ぎこちない動作で"アルシャイン"を正面へと構え直した。腕の震えは、先ほどよりも確実に大きくなっている。
そんな圧倒的な絶望の空気の中で、ザラ・シューエだけが、限界まで張り詰めた精神を稼働させ、冷徹に戦況のプロットを分析していた。
(――アルト殿は"眼"を使い切り、メロフィは完全に戦闘不能……。動けるのは、私とギエナ殿、そしてバナビー殿の三人だけだが……)
万全ではないが、それでも戦力は十分。
相手がどれほど底知れない化け物であれ、こちらには大戦期の英雄が二人、そして王国トップクラスの隠密性と速度を誇る自分がいる。正面から泥沼の消耗戦に持ち込むことはできずとも、三人の連携を極限まで噛み合わせれば、一瞬の隙を突いてその首を落とす勝機は、計算上、僅かに残されているはずだと、彼女は考えた。
(ここで退けば、上層のノクティア様たちにまで危険が及ぶ。……ならば、ここで私が初撃を叩き込む!)
ザラは硝子の鎧を軋ませ、自らの細剣の切っ先を最小限の予備動作で白銀の鎧の隙間――首筋の関節へと向けた。彼女の肉体が、音を置き去りにする超高速の刺突へと移行しようとする。
しかし。
目の前に立つ白銀の全身鎧は、ただ、自らの頭部を僅かに傾け、その鉄兜の隙間から覗く視線だけで、ザラの全身の運動神経を完璧に縫い留めた。
「――やめておきな、きみ、しぬよ」
淡々と、まるで明日の天気を告げるかのような平坦な口調で、少年は言った。
「っ、……!?」
ザラの足が、完全にその場に凍りついた。
動こうとしても、脳からの信号を筋肉が完全に拒絶している。
それは、王国でも有数の騎士であり、数々の修羅場を潜り抜けてきたはずのザラ・シューエが、生まれて初めて味わう絶対的な階位の差だった。
まるで、深い深い森の奥で、おのれよりも遥か高みの頂点に君臨する、圧倒的な捕食者と至近距離で目が合ってしまったかのような感覚。動けば、その瞬間に自らの存在そのものが、世界から綺麗に消去される。その事実を、肉体が、細胞の一つ一つが理解してしまい、恐怖のあまり完全に射竦められていた。
白銀の鎧の男は、ザラが完全に戦意を挫かれ、立ち止まったのを確認すると、それ以上彼女に興味を示すことはなかった。
奴はゆっくりと顔を上げ、この深い遺棄層の大穴の真上――そこにあるはずの、美しき白亜の都、アルキオネの方へと、ちらりと視線を向けた。
「……もう、いまさらあせっても、おそいとおもうよ。きみたちがここでがんばったことは、ぜんぶ、むだになっちゃったみたいだ」
「それは……どういう意味ですかな?」
バナビーが大盾の裏から、低く、押し殺した声で問いかける。老騎士の額からは、冷たい汗が幾筋も流れ落ちていた。
「じごくのかまのふたがあいたんだ。ぼくがこうして、ここからそとにでてきたということは……そういうことだからね」
白銀の少年がそう呟いた、まさにその瞬間だった。
――ゴォォォォォォォォッ!!!
地鳴りのような重低音が、遺棄層の地面から湧き上がった。
アルトたちが足元を見れば、先ほどメロフィが消し飛ばし、クレーターとなった地面の隙間から、無数の淡い紫色の光が、泥のようにじわりじわりと溢れ出し、立ち上り始めていた。
それは、この遺棄層に滞留していた、教国によって捨てられたなり損ないの"姫"たちの怨嗟、絶望、そして消費し尽くされなかったすべての物語の魔力だった。
本来であれば、"青ひげ"の消滅によって霧散するはずだったその膨大なエネルギーが、まるで目に見えない巨大な磁場に引き寄せられるかのようにして、クレーターの中央へと集束していく。
光は互いに撚り合わさり、やがて、一本の巨大な光条へとその姿を変えた。
ズドォォォォォォンッッ!!!
まばゆい紫色の光の柱が、遺棄層の底から、天層の上にあるアルキオネの都へ向けて、一直線に射ち上げられた。それは空間の壁を突き破り、絶壁の闇を紫色の怪光で染め上げながら、そのまま、あの上層の聖域へと激しく降り注いでいった。上層の歯車が、最悪の形で噛み合ったことを告げるかのように。
「――さて、ぼくもいかなきゃ。やくそく、はたさなきゃいけないからね」
白銀の全身鎧の男は、天へと伸びる紫色の光の柱を見つめながら、ぽつりと呟いた。
その声には、やはり何の感情も宿っていなかった。ただ、与えられた命令を、刻まれた指令を淡々と実行するためだけの、冷酷な機械の歯車のような響き。
奴は、その白銀の膝を、静かに少しだけ屈み込ませた。
その瞬間、彼の足元の地面が、その僅かな予備動作の圧力だけに耐えかねて、バリバリと蜘蛛の巣状に爆裂していく。
――ドンッッ!!!
鼓膜を叩き割るような爆破音。
次の瞬間、白銀の鎧は、物理法則を完全に置き去りにした凄まじい速度で、虚空へと跳び上がっていた。
その軌道は、まさに地を駆ける流星。奴は垂直に近い絶壁の壁面を、重力を無視して縦横無尽に蹴り上がりながら、またたく間にアルトたちの視界から消え去り、崖上のアルキオネの都へと駆け上がっていった。
あとに残されたのは、天へと昇り続ける不気味な魔力の光柱と、激しい風圧によって巻き上げられた灰の煙、そして、呆然と立ち尽くすことしかできなかった四人の戦士たちだけだった。
ギエナは、自らの獅子の魔法をゆっくりと解除した。
人間の姿に戻った彼の顔は煤と灰で汚れ、その双眸には、大戦期にすら味わったことのない、底知れない戦慄が色濃く滲んでいた。
彼は、未だに天層を紫に染め上げている光の柱を見上げながら、ぽつり、と。
砂を噛むような、掠れた声で呟いた。
「……いったい、あの白亜の都で今、何が起こってやがるんだ……!?」
その問いに答える者は、誰もいなかった――。
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