260話「禁忌の開帳」
バナビーは、メロフィの身体を自身の上着で包み込むようにして、まだ熱を持った地面へと静かに、横たえた。これ以上の振動すら彼女の肉体には毒になる。
そして、老騎士はゆっくりと立ち上がり、アルトたち一行の方へと向き直った。その顔からは、先ほどまでの父親のような柔らかな表情は完全に消え去り、再び国を滅ぼさんとする冷徹な戦士の鉄面皮が張り付いていた。
「……さて。これで、連中の最大の防衛線であり、喉元を押さえました」
バナビーは腰の長剣を引き抜き、その切っ先を、頭上にある白亜の聖域へと向けた。
「行きましょう、アルキオネへ。最高司教カリオペが待つ、あの偽りの祭壇を。……これ以上、彼女のような犠牲者を生まないために、すべてを引き摺り下ろす」
「ええ、行きましょう」
アルトが頷き、ザラもまた、彼の覚悟を肯定するように一歩を踏み出した。
バナビーの言葉に、全員が上層への進撃を開始しようとした――まさに、その瞬間だった。
ズウゥゥゥ、と。
不快な、何かが泥の中から這い上がってくるかのような摩擦音が、背後の白煙の奥から響いた。
「――ッ!?」
アルトの全神経が、一瞬にして跳ね上がった。
バナビーの背後。先ほどまで完全に灰燼と化し、玉座の残骸すら消滅していたはずのクレーターの、その最深部。
そこに、一つの影が立ち上がりつつあった。
「――ッ! あの野郎、まだ生きてやがるのかッ!?」
ギエナが驚愕の声を上げ、収めたばかりの剣を再び凄まじい速度で抜き放った。その全身の筋肉が、瞬時に戦闘人形のごとく強張り、戦闘態勢へと移行する。
そこにいたのは――"青ひげ"だった。
だが、その姿はもはや生物と呼べるような代物ではなかった。
肉体の大半は完全に消滅しており、残された胴体と頭部、そして右腕だけが、ドス黒く炭化した骨格をベースにして、強引に繋ぎ止められている。全身のあちこちから煤が零れ落ち、内臓のあった場所からは、消えかけた消炭のような赤い火の粉がチリチリと爆ぜていた。
両眼球は完全に焼き潰され、ただの黒い穴となっている。それなのに、その顔面は正確に、バナビーたちのいる方向へと向けられていた。
肉体は死んでいる。細胞も、筋肉も、魔力の回路すらも、すでに生命としての機能を完全に停止している。
にもかかわらず、奴の骨組みを動かしているのは、ただ一つ。
最高司教への狂信と、おのれのコレクションを害されたことへの、底知れない妄執だけだった。
「"青ひげ"……! ここまでやっても……」
アルトが再び聖剣に手をかけようとする。
しかし、そのアルトの動きを、バナビーは静かに左手を掲げることで制した。
老騎士の目は、背後の怪人の姿を捉えながらも、驚きも、焦りも見せていなかった。その表情は、極めて落ち着いていた。
「……大丈夫です。ギエナ殿、アルト殿。……此奴はもう、完全に終わりです」
バナビーの指摘通り、"青ひげ"の肉体には、かつてあれほどアルトたちを絶望させた理不尽な再生力は、もう一分すら残されていなかった。
炭化した肉が、内側からボロボロと崩れ落ちていく。奴が動こうとし、その意志を骨格に伝えるたびに、その接続面が耐えきれずに砂となって崩壊していっているのだ。
まるで、水を混ぜて無理やり形を保っていただけの、乾きかけた砂の彫刻のように。奴の右足は、一歩前に進もうとした瞬間に、膝から下が自重に耐えかねてサラサラと床へと零れ落ちた。
放っておいても、あと数十秒で自壊する。
それが、この哀れな番人に下された、残酷な確定事項だった。
勝利を確信したバナビーが背を向け、視線を外そうとした、まさにその瞬間だった。
「……ん、ンッンー! ワガハイは……不滅にして、不撓の存在……ッ! プレアデスの影を、最高司教様の秘密を、守る者なりィ……ッ!」
焼き潰されたはずの"青ひげ"の喉から、血の混じった不快な笑い声が、あの特徴的な抑揚を伴って漏れ出した。
奴は、崩れ落ちていく顔面の、僅かに残った口角を、不敵に、そして狂暴に歪めてみせた。
その顔は、自らの死を悟った者の絶望ではなく、自らの役割を完遂する者の、狂気の悦びに満ちていた。
ガキリ、と骨の擦れる嫌な音を起てて。
"青ひげ"は、辛うじて形を保っていた右腕を、天へと向けて高く、掲げた。
その指先には、彼の肉体が崩壊する直前の、最後の、そして最も濃密な魔力が集中していく。
「ワガハイは、禁忌の番人……。……番人の、最後の仕事は……。……押し寄せる賊を倒すことではなく……その奥にある、扉を開けることなのですなァァァッ!!」
「――ッ! しまっ、バナビーの旦那! そいつにトドメをッ!!」
ギエナが叫ぶ。
だが、そのギエナの叫び声よりも早く、灰色の閃光が戦場を切り裂いた。
ザラ・シューエ。
彼女は怪人の言葉が始まった瞬間に、最悪の結末を直感的に予見していた。思考よりも先に肉体を駆動させ、硝子の鎧を軋ませながら、爆発的な推進力でクレーターの底へと突撃する。
一瞬。世界の時間が、極限まで引き延ばされる。
ザラの握る細剣が、月光のような鋭い軌跡を描き、"青ひげ"の炭化した首筋へと肉薄する。
刃がその首を、完全に刎ね飛ばす。その未来のプロットが成立するよりも、ほんの、ほんの一瞬だけ、早く。
怪人の、肉の剥がれ落ちた右手の指先が。
――パチン、と。
遺棄層の全空間に、乾いた、あまりにも明瞭に、指を鳴らした音を響かせた。
「――"禁忌の部屋"、"開帳"」
ザラの剣が、怪人の首を鮮やかに切断し、その頭部が宙へと舞い上がったのは、まさにその直後だった。
ボトボトと、糸の切れた人形のように崩れ落ち、今度こそ完全に砂となって消滅していく"青ひげ"の肉体。
しかし。
奴の指鳴らしが響き渡った瞬間、遺棄層の全空間の法則が、その根本からベきりと音を立てて歪み始めた。
アルトの、眼帯の下の右目が、閉じているはずなのに激しい拒絶の痛みを訴える。
クレーターのさらに奥。
何もないはずの虚空の空間に、ドス黒い、光すらも吸い込むような巨大な亀裂が走り、そこから溢れ出したのは、上層のアルキオネすらも一瞬で呪い殺すほどの、圧倒的なプレッシャーを持った未知なる魔力の波動だった。
番人は死んだ。
けれど、彼がその命のすべてを懸けて閉ざし続けていた"開かずの間の扉"が、今、最悪のタイミングで、世界に向けて完全に解き放たれようとしていた――。




