258話「朱き流星」
白銀の星の輝きが、世界を完全に塗り潰していた。
アルトが放った"アルシャイン"の最大開放。その圧倒的な神聖の奔流は、"遺棄層"の底に堆積していた、ドロドロとした怨嗟、死臭、そして歪な魔力の澱みを、容赦なく根こそぎ雪いでいく。
光の波濤が収束していく中、周囲の大気は高熱によって激しく歪み、地面はドロリと融解して硝子状の光沢を帯びていた。
遠巻きに禁忌衆を文字通り蹂躙していたギエナとザラでさえも、その凄まじい熱量と破壊の光に思わず腕で顔を覆い、息を呑むほどの一撃だった。邪悪なる理不尽を塵一つ残さず焼き尽くす、まさに完全なる終焉のプロット。誰もが、あの怪人の消滅を確信した。
――だが。
「う……お、ォォォォォオ……ッッ!!」
純白の残照を乱暴に引き裂きながら、地の底から響くような地獄の咆哮が、再び大気を震わせた。
アルトは驚愕のあまり、眼を大きく見開いた。
光の霧の向こうから、一歩、また一歩と、巨大な影が這い出てくる。
それは、全身の皮膚を完全に焼き剥がされ、ドス黒い骨と剥き出しの筋繊維が炭化しかけている、凄惨極まる姿となった"青ひげ"だった。
衣服は完全に灰と化し、特徴的だった青い髭も半分以上が焼き焦げている。頭蓋の一部が露出し、爛爛と血走った巨大な眼球だけが、狂気と怨念の光を宿してアルトを凝視していた。
「……るものか、滅びるものかぁッ! ワガハイは、禁忌の蒐集者たるワガハイは、このような場所で灰にはならんのですなァァァッ!!」
怪人が一歩を踏み込むごとに、融解しかけていた白石の床へ、蜘蛛の巣のような激しいヒビがバキバキと音を立てて走る。傷口からは、これまでのような緩やかな再生の霧ではなく、自らの命の"根源"を強引に削り、燃やすような、禍々しい赤紫色の魔力が文字通り爆発的な勢いで噴き出していた。
「……まだ、滅びぬのですか」
相対するアルトの顔に、明らかな戦慄が走る。
聖剣の全魔力を込めた至高の一撃。邪悪を断つ絶対の光をその身にまともに喰らってなお、肉体を繋ぎ止め、これほどの威圧感を放ちながら前へ進んでくるなど、およそこの世界の生物の摂理を超えていた。
その驚愕の言葉に応じるように、"青ひげ"は炭化しかけた巨大な拳を、天層のアルキオネへと向けて高く、高く掲げた。
「ワガハイは滅びぬ……! 滅びるわけにはいかんのですなァ! 偉大なる故国のため、ワガハイに役割を与えてくださった最高司教様のため……! そして何よりも、我が魂のすべてを懸けて蒐集め上げた、あの美しき少女たちの成れの果て――我が輝かしき、蒐集物のためにィッ!!」
怪人の叫びは、もはや理性のプロットを完全に逸脱し、純粋な狂気と妄執の塊へと変貌していた。
奴は、ボロボロに崩れかけ、自身の魔力によって強制的に駆動されているその巨軀を深く沈み込ませた。彼が宿す"物語"の全エネルギーが、その右拳へと急速に、かつ過剰なまでの密度で収束していく。空間が赤紫色の光によって歪み、バリバリと不快な放電現象がアルトの肌を刺した。
これまで放たれたどの暴力よりも、遥かに重く、遥かに凶悪な一撃の気配。
"青ひげ"の全身から立ち上る殺圧だけで、周囲の瓦礫がカラカラと音を立てて浮き上がる。
「ワガハイは"青ひげ"! "青ひげ"ドラコニス・ルナ・バービア! 聖教国の影を担い、貴様らのような不純なる賊の道を閉ざしィ、禁忌を永久に閉じ込める者なりィィイイイッ!!」
すさまじい剣幕と、大気を圧殺するほどの魔力の奔流。
その圧倒的な迫力に、数々の修羅場を潜り抜けてきたアルトの足元が、ほんの一瞬、本能的な恐怖によってたじろいだ。
(――時間切れが、近い)
アルトの右目の硝子結晶が、激しい痛みを伴ってチリリと音を立てる。未来の軌跡を映し出す虹色の視界が、急激に色彩を取り戻していく。発動可能時間の一分間は、すでに文字通り数秒しか残されていなかった。
もし、回避が間に合わず、あの最大威力の突進を喰らえば、聖剣での防御すら貫通して肉体を消し飛ばされるのは確実だった。
赤紫色の彗星と化したドラコニスが、地面を爆破しながら一直線に突進してくる。
死の質量が、目の前に迫る。
しかし。
アルトは迫りくる絶望のプロットを前に、ふっと、その口元に冷徹な、けれど確信に満ちた微笑を浮かべた。
「……悪いですね、ドラコニス殿」
アルトは"硝子の眼"が完全に閉じるその最後の刹那、自らの身体を左側へと強引に投げ出すようにして、その突撃の軌道から身を退いた。
「あなたの相手は、もう……私ではありません」
ドォォォォォォンッッ!!!
アルトが退いた刹那、彼とドラコニスの間に、天空から巨大な隕石が墜落したかのような凄まじい地響きと共に、"それ"が割り込んできた。
白亜の光沢を放つ、重厚極まる鏡の大盾。
大戦期において、数千にも及ぶ敵国の猛攻を正面から受け止め、ただの一歩も退かなかったという、戦場の生ける伝説――"鉄壁"の象徴が、そこに毅然と立ち塞がっていた。
「な、――ッ、これ、はッ!?」
"青ひげ"が叫ぶが、すでにその突進の慣性は止められない。彼の放った最大威力の巨拳が、バナビー・フォン=アイゼンベルクの掲げる大盾の真ん中へと、正面から激突した。
ガギィィィィィィィィィンッッッ!!!
遺棄層全体を木霊する、鼓膜を破らんばかりの金属衝突音が炸裂した。
激突の衝撃波だけで、周囲で燃え盛っていた死体の山から炎がすべて吹き飛ばされ、突風となって絶壁の壁面へと叩きつけられる。バナビーの纏う頑強な鎧がギチギチと悲鳴を上げ、大盾を支える彼の両腕の筋肉が破裂せんばかりに膨れ上がった。
バナビーのブーツが地面を深く削り、数センチメートルだけ後方へと滑る。しかし、それだけだった。
老騎士は、その牙を剥いた怪人の暴力を、ただの一歩も、一歩たりとも自身の背後へと通すことはなかった。大盾の鏡面はドラコニスの赤紫色の魔力を完全に反射し、その威力を奴自身の肉体へと跳ね返していた。
「んっ、ンー!? ワガハイの、ワガハイの渾身の一撃が……止まった、だとォ……ッ!?」
ドラコニスは巨拳を盾に押し当てたまま、信じられないものを見るかのようにその巨大な眼球を見開いた。
その怪人の頭上。大盾の影から、不吉なほどの"影"が静かに、けれど圧倒的な速度で飛来する。
バナビーが、遺棄層の底へ飛び込んでくるその瞬間、彼の背後から立ち昇っていたのは、アルトの聖なる光とは真逆の、ドロドロとした血のように濃密な、凄まじい"赤い魔力"だった。
それはバナビー自身の魔力ではない。彼がその広い背に、その強固な鎧の裏に、ずっと大切に隠し、守り続けてきた少女の――呪われた物語の灯火。
赤い魔力は空中の一点へと急速に収束し、まるで夜空を切り裂く逆行の流星のように、ドラコニスの頭上へと降り注ぐ。
「……終わりです、禁忌の番人よ」
バナビーは大盾で怪人の腕を強引に押し返し、その深い皺の刻まれた顔で、静かに、そして葬送の鐘のように冷徹に言い放った。
「あなたの国への忠義も、その歪な妄執の終わりも。……すべて、この深淵の灰と共に受け入れなさい――!」
老騎士の宣告と同時に、彼の背後から一筋の小柄な影が、虚空へと高く跳び上がった。
――メロフィだった。
彼女の全身からは、これまでの比ではないほどの朱き魔力が噴き上がっている。
見れば、彼女の両脚は、すでに法衣の裾を焼き切り、皮膚の表面にはガラス細工が粉々に砕ける直前のような、無数の禍々しい赤いヒビが発光しながら上り詰めていた。肉体が、物語の要求する絶大な出力によって内側から崩壊しかけている。
けれど、その瞳には、かつての"なり損ない"としての虚無はない。自分を拾い上げ、一人の人間として扱ってくれたバナビーの盾となるため、彼女はその命のすべてを、この一撃へと変える覚悟を完了させていた。
空中。逆光の中で、メロフィは自らの右脚を、天の星々を叩き落とすかのような鋭さで振りかぶった。
彼女の周囲に、呪われた舞踏のプロットが展開される。一度踊れば死ぬまで止まれない、朱き呪いの残響――。
「――"朱星墜天・舞踏葬"ッッ!!!!!」
メロフィの裂帛の叫びが、地獄の底に響き渡った。
直後、彼女の右脚から放たれたのは、遺棄層の全空間を物理的に圧殺するほどの、巨大な朱き流星の如きエネルギーの奔流。
それは、空間ごと敵を消滅させる、破壊の舞踏の終止符。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!
メロフィの放った一撃が、"青ひげ"の脳頭蓋へと容赦なく炸裂した。
不滅を誇る肉体が、その圧倒的な朱色の熱量の前に、再生を試みる暇すら与えられず、細胞の一個単位にいたるまで完全に融解し、爆散していく。
「ァァァァァアアアアッ、最高司教様ァァァァァァァァァァッッッ!!!」
狂信者の最後の断末魔の叫びすらも、その灼熱の魔力の爆発の中に完全に消し飛ばされた。
光と炎が渦巻き、遺棄層の全空間が、目が眩むほどの赤い魔力の奔流によって包み込まれていく。積み上げられた死体の山も、ボロボロの玉座も、そしてこの地を支配していたすべての禁忌も――。
少女が命を賭して踊った、その一歩の輝きによって、等しく均一な灰へと変えられていくのだった。




