257話「疾駆、炎、聖なる剣」
アルトが放った強烈な閃光が、"遺棄層"の絶望的な闇を一瞬にして白日の下に晒した、まさにその刹那。
破滅のカウントダウンの始まりを告げるように、積み上げられた死体の山の間を、一筋の不気味な影が疾風のごとく駆け抜けていった。
――グルゥゥゥァァッ!!
地を震わせるような低い唸り声を上げ、猛烈な速度で跳躍を繰り返すのは、魔法によって滑らかな硝子の鬣を纏い――獅子へと変貌を遂げたギエナだった。その毛並みは夜の闇に沈む血のように禍々しく、剥き出しにされた牙の間には、爛々と輝く松明が深く咥え込まれている。
ギエナは死体の山を足場に、重力を無視したような変則的な軌道で四肢を躍動させた。
パチパチ、と乾燥した肉と骨が爆ぜる嫌な音が響いたかと思うと、次の瞬間には、幾重にも積み重なっていた"なり損ないの姫"たちの屍が、爆発的なオレンジ色の炎に包み込まれた。炎は瞬く間に周囲へと伝染し、地獄の底を焦熱の檻へと作り変えていく。
(――二日間、我々もただ、敵を見ていただけではない)
ギエナの四肢には、油を撒き散らす特別な装置が取り付けられている。
とは言っても、手の込んだものではない。廃墟にあったあり合わせの資材で作ったものだが、働きとしては十分だった。
「な、なっ……!? あの、あの悍ましい獣は、一体全体何をしているのですかなッ!?」
玉座から立ち上がった"青ひげ"は、燃え広がる炎の光に照らされ、その鬼のような形相を驚愕と焦燥の蒼白へと染め上げた。
奴にとって、この"遺棄層"にある数千の死体は、力の源そのままなのだろう。喪失の危機を前にして、傲慢な絶対者の余裕が、その一瞬で完全に崩壊した。
「何って……弔いですよ。我がヴァルゴ王国では、最近は火葬が主流になりつつありましてね――!」
アルト・オレオーンはその一瞬の動揺を、右目で完璧に捉えていた。
怪人の思考が炎へと割かれ、防御の意識が僅かに逸れたその隙。アルトは躊躇なく踏み込み、聖剣を限界まで突き出した。
超高速の直線的な突きが、"青ひげ"の太い喉元へと寸分の狂いもなく突き刺さる。神聖な魔力が刃を伝って奴の体内に流れ込み、肉体を内側から焼き切っていく。
「ガ、あ……ご、ぶぅっ……!?」
"青ひげ"の口から、言葉にならない悲鳴と共に、血の混じった赤紫色の泡が激しく溢れ出た。喉を貫かれ、視線を彷徨わせる怪人。
その凄惨な光景を目にした周囲の"禁忌衆"たちは、主君の危機を救うべく、すぐにでもアルトと"青ひげ"の間に割り込もうと、鋼の剣を構えて突撃を開始した。
「――ご、ぼぼっ、き、おのれ……"禁忌衆"……! わ゛、ワガハイよりも先に……! あの火を、火を消しなさいッ! ワガハイの蒐集物が、灰になってしまうではないですかァァァッ!!」
喉から血の泡を吹きこぼしながらも、"青ひげ"は狂ったように叫び散らした。
奴の命令の優先順位が切り替わった瞬間、襲いかかろうとしていた"禁忌衆"たちの動きがピタリと止まる。
そして、数十人の異形の騎士たちが一斉に向きを変え、燃え盛る死体の山の消火活動へと奔走し始めた――直後のことだ。
――キィン、と。
消火のために背を向けた一人の"禁忌衆"の背後に、きらめく硝子の破片が舞い散った。
「――やはり、この遺体たちが奴の力の鍵だったようですね」
物陰から、音もなく飛来した一筋の影。
全身に硝子の軽装鎧を纏い、月光のような冷たい輝きを放つ細剣を握った少女――"壊刃"にして"灰刃"、ザラ・シューエ。
彼女の一閃は、無駄な力みが一切ない、極限まで研ぎ澄まされた処刑の刃だった。空間を滑るように動いた細剣が、消火に気を取られていた禁忌衆の首筋を正確に捉え、一刀のもとにその首を宙へと跳ね飛ばした。
ボトリ、と鋼の兜が床に落ちる。しかし、着地したザラの隙を突くように、すぐ側を走っていた別の"禁忌衆"が、巨大な戦斧を振りかぶって彼女へと襲いかかった。大気を圧殺するような力任せの横薙ぎ。
「……悪いですが、あなたたちの馬鹿力に、正面から付き合うつもりはありませんよ」
ザラは冷徹な瞳のまま呟くと、自らは回避の動作に入らず、ただ左手を虚空へと伸ばした。
その瞬間、猛烈な突風と共に、彼女のすぐ真横を、質量を持った疾風が駆け抜ける。
ガシィッ!!
ザラが掴んだのは、遺棄層内を縦横無尽に巡回し、未だに火を放ち続けていた獅子――ギエナの分厚い首毛だった。ギエナはその巨体にザラをぶら下げたまま、一切速度を落とすことなく、むしろさらに加速して戦斧の射程圏内から即座に離脱した。
「どうだい、ザラ嬢。手応えはあるかい?」
疾走する獅子の背、あるいはその巨軀に身を委ねながら、ギエナの腹の底から響くような声がザラの耳に届く。
「ええ、分厚い筋肉ですが、連中の首は問題なく落とせます。……しかしギエナ殿。先ほど私を拾い上げるタイミング、予定よりも数瞬、遅かったように思えましたけれど?」
「……ハッ、手厳しいねぇ、こりゃ。おじさんもこれでも必死に火を点けて回ってんだ、大目に見てくれよ」
そんな軽口を交わし合う余裕すら、今の二人にはあった。
凄まじい速度で遺棄層の戦場を駆け回る二人の影。炎の勢いを止めようと必死になっている"禁忌衆"たちにとって、超高速で移動する獣と、その背から正確無比に繰り出される硝子の刺突は、回避不能な死神の鎌そのものだった。
ザラが細剣を振るうたびに、禁忌衆の四肢が切断され、ギエナの鋭い爪がその鎧ごと肉体をねじ切っていく。戦況は、完全に彼らによって支配されつつあった。
「な、なんですと……! これは、一体どういうことですかなァァァッ!?」
次々と斃れていく自慢の部下たち、そして何より、未だに勢いを増して燃え続ける不滅の源を前に、"青ひげ"の顔は完全な驚愕と絶望に染まっていった。喉の傷は星の魔力によって再生を阻害され、未だに不快な血の泡を吐き出し続けている。
しかし、奴が直面している最大の、そして最も致命的な脅威は、目の前に立つ青年騎士だった。
「他所見をしている暇が、ありますか?」
アルトの冷徹な声が、"青ひげ"の鼓膜を射抜いた。
圧倒的な膂力と、本来であれば瞬時に創傷を塞ぐ理不尽な再生力。それらを兼ね備え、接近戦において無類の強さを誇るはずの"青ひげ"の拳。それが、今のアルトにはただの一度も掠りすらしない。
"硝子の眼"を開放したアルトの視界には、"青ひげ"の肉体が放つ次の攻撃の未来の軌跡が、光の残像となってあまりにも明瞭に映し出されていた。
右からの大振りの拳を、首を僅かに傾げるだけで躱し、すれ違いざまにその脇腹を聖剣で深く切り裂く。
激昂した怪人が放つ狂暴な蹴りを、一歩後ろに退くだけで完全に無効化し、伸びきった足の腱を正確に一文字に断ち切る。
じわじわと、けれど確実に肉体を削られ、"青ひげ"の巨軀は徐々に、その足を後退させていくしかなかった。かつてあれほどアルトたちを絶望させた怪人が、今は一人の若い騎士の剣技の前に、文字通り蹂躙されていた。
(――やれる! この一瞬なら、奴を完全に上回れる!)
アルトは脳裏で、残り少なくなっていく"硝子の眼"の制限時間をカウントしていた。右目の硝子の結晶が、限界以上の負荷によってミシミシと悲鳴を上げ、脳を直接灼くような激痛を訴えてくる。だが、彼の精神はその痛みを完全に無視し、勝利だけを見据えていた。
今こそ、すべての魔力を解き放つ時。
アルトは聖剣"アルシャイン"の柄を、血が滲むほどの力で強く握り締めた。
邪な魔力を断ち、闇を払うために鋳造された、"不落の獅子"の忘れ形見。その刃から放たれる純白の輝きは、周囲の淀んだ空気さえも押し戻し、今や最高潮の密度に達していた。
"青ひげ"が、焦りのあまり後ろに下がった際、足元の死体の残骸に足を取られ、僅かにその体勢を崩した。
――その一瞬の隙。
「しまっ……!?」
アルトは、"眼"が捉えたその決定的な間隙を、絶対に見逃さなかった。
彼は深く踏み込むと、あえて敵の息の根を止めに行くのではなく、"青ひげ"の剥き出しになった浅い脛を、鋭く、精密に横一文字に斬りつけた。
「グ、アァッ!?」
不意の激痛に、"青ひげ"の意識が一瞬だけ、完全に足元の傷へと集中する。ガードが下がり、その巨大な胸元と頭部が、完全に無防備な晒し者となった。
これこそが、アルトの狙い。
意識を誘導し、最大の隙を作り出す。
アルトは右目の硝子眼を限界まで見開き、全身の、そして聖剣に宿るすべての星の魔力を、その切っ先へと収束させた。彼は両手で聖剣を、天層の上にあるアルキオネの都をも貫かんばかりの勢いで、高く、高く掲げた。
「――"アルシャイン"、最大開放ッッ!!!」
直後、遺棄層の全空間を完全に消失させるほどの、眩むような純白の光の奔流が、一気に解き放たれた。それは地獄の底に現れた、新たなる太陽の如き圧倒的な神聖の暴力。
「ギャァァァァァァァァァァァァァッッッ!!!???」
光の波濤は、"青ひげ"の巨軀を、その絶望の玉座ごと完全に飲み込み、その輪郭を真っ白な光芒の彼方へと消し去っていく――。




