256話「扉を開く者」
「何事ですかなァァァッ!?」
地獄の底から響き渡るような、怒りと狂乱の入り混じった咆哮が、"遺棄層"の重苦しい大気を震わせた。
直後、アルトが放った聖剣"アルシャイン"の先制の光芒が、玉座に座る怪人――"青ひげ"の至近へと容赦なく着弾する。
ドォォォォン!!
凄まじい爆発音と共に、積み上げられた死体の山が文字通り消し飛び、周囲は一瞬にして視界を遮るほどの濃密な砂煙と、肉の焼ける悍ましい悪臭に包み込まれた。"青ひげ"が手にしていた歪なワイングラスは、衝撃波に晒されるよりも早く、彼の太い指先によってミキミキと握り潰され、赤紫色の不気味な液体が爆炎の中に霧散していく。
絶壁の上から、重力に従って一気に深淵へと舞い降りたアルトは、衝撃を殺しながら大理石の床へと着地した。
凄まじい衝撃がブーツの底を狂わせようとするが、彼は鍛え上げられた体幹でそれを強引に御し、聖剣を正面へと真っ直ぐに構え直す。周囲を包む砂煙は厚く、陽炎のように揺らめいている。
肺に流れ込んでくる空気は、焦げた血の匂いと、死者の無念が物理的な重さとなったかのような、おぞましい冷気を孕んでいた。
(――油断するな。これほどの不意打ち、ましてや聖剣の一撃であっても、こんなことで死ぬようなヤツじゃない……!)
アルトは眼帯の下の右目を引き締め、砂煙の奥の一点へと神経を集中させた。
その予想は、最悪の形で的中する。
――フッ!!
大気を引き裂く凶悪な風切り音。
砂煙を真っ二つに割りながら突風と共に飛来したのは、大人の胴体ほどもある"青ひげ"の巨拳だった。それは爆発の余波を一切無視し、アルトの頭部を消し飛ばさんと、一直線に迫りくる。
「くっ……!」
ギリギリまで引き付け、アルトは聖剣の腹を滑らせるようにして、その剛腕の軌道を受け流そうとした。しかし、伝わってきたのは、まるでおのれが巨大な攻城槌を正面から受け止めたかのような、圧倒的な質量と暴力。
ギギギ、と鋼と肉が擦れ合う嫌な音が響き、アルトの身体は床を削りながら数メートルも後方へと弾き飛ばされた。どうにか姿勢を保ち、ブーツで白石を制動させて踏み止まる。衝撃で両腕の骨が軋み、痺れるような痛みが走ったが、彼はそれを精神力で圧し潰した。
正面の砂煙が、怪人の荒い息遣いによって吹き払われる。
そこには、衣服をボロボロに引き裂かれ、鬼のような形相でこちらを睨みつける"青ひげ"の巨軀があった。
「んっ、ンーーーッ! 侵入者、乱入者、狼藉者ぉッ! ようやく来ましたなぁ、待ちくたびれた! 待ちくたびれて、ワガハイの自慢の髭が退屈で縮んでしまうかと思いましたぞォ!」
「……ええ、お待たせしました。この夜半に、あなたへ確実な死をお届けに参りました」
アルトは聖剣を構え直しながら、冷徹な声を返した。
"青ひげ"の両腕や胸元には、先ほど"アルシャイン"の放った聖なる光によって焼き焦がされた、黒い火傷の痕が生々しく残っていた。肉が爆ぜ、骨が露出しかけているその有様は、常人であれば即死、あるいは戦闘不能に陥るレベルの重傷だ。
しかし、その凄惨な傷口からは、どす黒い魔力の霧がシュウシュウと音を立てて噴き出しており、それを追うようにして、新しい肉と皮膚がじわじわと、かつ確実に再生し始めていた。
「死を、お届けに? んっ、ンー! 滑稽、滑稽ですなぁ!」
"青ひげ"は、自身が受けているはずの致命的なダメージなどこれっぽっちも感じさせぬ様子で、大きく肩を回した。ゴキゴキと首の骨を鳴らし、何なら、再生しきっていない不気味な指先で、特徴的な青い髭を弄ぶ余裕すら見せていた。
「この"遺棄層"において、ワガハイは最強、無敵、不滅の存在ィ……。数千の"なり損ない"の物語が、ワガハイの血肉となり、命のストックとなっているのですなァ! それを分かった上でわざわざここに足を踏み入れたということは……あなたも、ワガハイの美しき蒐集物の一部になる用意ができた、ということですかな!?」
怪人の血走った巨大な眼球が、爛々と輝きながらアルト一人へと向けられる。
その視線には、激しい怒りと、それ以上に新たな獲物を見つけたことへの異常な歓喜が満ちていた。
アルトはその狂気に満ちたプレッシャーを真正面から受け止めながら、心中で冷酷に戦況を計算していた。
――作戦通りだ。
"青ひげ"の注意は、今、完全に自分へと集中している。彼が周囲の不審な気配や、他の仲間の伏撃に気づく余地はない。この圧倒的なヘイトを自分に固定し続けることこそが、この無謀な奇襲を成立させるための絶対条件だった。
「……いえ。そういうわけにはいきませんね。私は、誰かのコレクションに収まるほど、安価な人生を送ってきたつもりはありません」
アルトは左手をゆっくりと顔に当て、自らの右目を覆っていた重厚な眼帯へと指をかけた。
革の紐が解かれ、床へと落ちる。
次の瞬間、アルトの右目が露わになった。
それは、人間のそれとは明らかに異なる、どこまでも透き通り、虹色の魔力を乱反射させる不可思議な結晶体――"硝子の眼"。
パシィィィィンッ!!
アルトの脳内に、世界が完全に書き換えられる衝撃が走った。
視界が、一瞬にして色彩を失い、線画のような極限のクリアさへと変貌する。いや、色彩が消えたのではない。すべての物質の表面を流れる魔力の回路、空気の微細な圧力の波、そして――目の前に立つ"青ひげ"の、筋繊維一本にいたるまでの脈動が、禍々しいまでの色彩を持って視覚化されたのだ。
怪人が次にどの筋肉を収縮させ、どの方向へ体重を移動し、どのような軌道で拳を放とうとしているのか。その未来の予兆が、光の残像となってアルトの右目に直接流れ込んでくる。
「……私は、アルタイル・オレオーン。ヴァルゴ王国特使、ノクティア・グラスベルが第一の騎士」
アルトは聖剣の切っ先を"青ひげ"の眉間へと向け、自らの真の名を刻みつけるように名乗った。
「貴様という理不尽を、ここで打ち倒すために私は来た」
「んっ、ンー! 名乗られようと、こちらには賊に名乗る名など無いのですなァ! 灰は灰に、肉は肉に、死体はワガハイの肥やしになるのですなァァァッ!!」
"青ひげ"の巨軀が、爆発的な推進力をもって突進してきた。
放たれるのは、先ほどよりも遥かに速く、破壊力に満ちた高速の拳撃。拳、蹴り、風を切り裂く裏拳、さらには石床を爆裂させるほどの頭突き。それらが、一分の隙もない密度の暴力となってアルトを圧殺せんと降り注ぐ。
しかし。
アルトの身体は、まるで最初からそこに攻撃が来ることが分かっていたかのように、滑らかな、無駄のない動きでそれらのすべてを躱していった。
――ガッ、ドォン!
"青ひげ"の拳が通り過ぎた後の風圧だけで、アルトの髪が激しく狂う。だが、彼の身体はその拳のわずか数ミリ横を、紙一枚の隙間で擦り抜けている。
蹴りが来れば、地面に這いつくばるような低い姿勢で滑り込み、裏拳が空を仰げば、最小限の首の傾げだけでそれを無効化する。
(――やはり、見える! "硝子の眼"ならば、どれほどデタラメな速度と質量であっても、一対一で"青ひげ"と渡り合える……!)
アルトの脳は、狂ったような速度で演算を繰り返していた。
右目の硝子が、酷使される魔力によってチリチリと焼け付くような熱を帯び、痛みを訴えてくる。
この眼の最大発動可能時間は、一分間。
この六十秒の間であれば、アルトは神の領域に等しい回避力と予測力を手に入れ、単独でこの不死の怪物を相手取ることができる。戦うだけなら、対等以上に立ち回れる。
だが、この力は"防御"と"予測"に特化したものだ。
どれだけ攻撃を見切り、聖剣で肉を切り裂いたとしても、相手は数秒で元の形へと再生してしまう。一分が経過し、右目の魔力が枯渇すれば、その瞬間に待っているのは、疲弊したアルトへの容赦のない肉塊の粉砕だ。
だからこそ、アルトが本当に恐れるべきは、目の前の怪物一人ではなかった。
「このォ、ちょこまかと……小癪な、小癪ですなぁぁぁッ!」
自分の攻撃がただの一度も掠りすらしないことに、"青ひげ"の顔が完全な焦燥と怒りに染まった。奴は大きく距離を取ると、天を仰いでその雷声を響かせた。
「"禁忌衆"! 何を遊んでいるのですなァ! こいつを取り囲み、その手足を圧し折ってワガハイの前に差し出しなさいッ!!」
その命令と同時に。
遺棄層のあちこち、積み上げられた死体の山の影、崩落した柱の裏、地の底の亀裂から――カチカチ、と不気味な鋼の擦れる音を立てて、無数の人影が立ち上がった。
それは、教国によって自我を奪われ、戦闘人形へと変えられた異形の騎士たち。数百の無機質な殺意が、一斉にアルト一人を取り囲むようにして包囲網を縮めていく。
(――来た、唯一の負け筋……!)
"青ひげ"の手足――"禁忌衆"の群れ。
どれほど"硝子の眼"が未来を予測できようとも、全方位から逃げ場のない密度の面攻撃を仕掛けられ、乱戦に持ち込まれれば、肉体の回避速度が演算に追いつかなくなる。一分という限られた時間を、雑兵の処理に費やすわけにはいかない。
だが。
その最悪の展開すらも、アルトたちが事前に幾度も擦り合わせ、練り上げてきた作戦通りだった。
「――任せましたよ、ギエナ隊長!!」
アルトは叫びながら、聖剣"アルシャイン"を力強く天へと突き上げた。




