255話「英雄の資質」
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空が血の混じった泥のような、重々しい赤紫に染まり始める頃。プレアデス聖教国の地下に広がる広大な大穴――"遺棄層"の縁には、冷たい風が吹き荒れていた。
アルキオネに差し込む陽光が絶壁の陰に遮られ、この地獄の底には、足元から這い上がってくるような漆黒の影が急速に満ちつつある。
その影に紛れるようにして、アルトとバナビーの二人は、身を潜めて眼下の様子を凝視していた。
張り詰めた空気の中、吸い込む息さえも死臭と古い魔力の残滓で微かに鉄の味がする。
ここから少し離れた岩陰、あるいは崩落した回廊の残骸の向こうには、ギエナとザラ、そして今回の作戦の最大の切り札であるメロフィが潜伏しているはずだった。
それぞれの配置から、全員がじっと息を殺し、一撃ですべてを決する奇襲の瞬間を、そして運命の歯車が噛み合うタイミングを静かに伺っている。
彼らの視線の先、遺棄層の中央には、悍ましくも圧倒的な存在感を放つ影が鎮座していた。
無数に積み上げられた、なり損ないの"姫"たちの屍。その頂点に置かれた、かつては神聖な儀式で使われていたのであろうボロボロの玉座めいた豪奢な椅子。
そこに、巨軀を不自然に折り曲げるようにして腰掛けている怪人――"青ひげ"。
彼は、指先で持った歪なワイングラスを静かに揺らしていた。
グラスの中で燻んでいるのは、赤紫色の不気味な液体だ。時折、それを大きな口に流し込んでは喉を鳴らしているが、その目に酒に酔っているような気配は微塵もなかった。
それどころか、ピンと張られた不快な髭の奥にある双眸は、針のように鋭く研ぎ澄まされている。
絶えず周囲の暗闇を、剥き出しの殺意を孕んだ視線で睨みつけ、微かな音の狂いも見逃さないという強固な警戒態勢を維持していた。
「……やはり、完全に警戒されてますね」
アルトは身を伏せたまま、手にした聖剣"アルシャイン"の柄を握り締め、ポツリと声を漏らした。
抜剣はしていない。だが、鞘の隙間から漏れ出す微かな星の光が、彼の緊張を証明するように小刻みに震えていた。
「ええ、そうですな。あの時、半端に交戦して逃げ延びたのが、奴の防衛本能を刺激してしまったのでしょう。……恐らく、目に見える場所以外にも、無数の"禁忌衆"が影の中に潜んでいると見るべきです」
バナビーは平静を崩さず、鏡の大盾を岩肌に預けたまま、低い声で応じた。老騎士の横顔には、幾多の戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ、岩石のような不動の重みがあった。
「始まれば、かつてない混戦は避けられない。……本当に、上手く行くでしょうか?」
アルトの問いかけには、隠しきれない焦燥が混じっていた。
彼はこれまでに、ガーランドで"赤ずきん"という怪物を討伐し、さらには帝国が誇る"人類到達点"とすら直接刃を交えてきた。
一人の騎士としての実力、そして戦士としての格は、すでに歴戦の猛者であるギエナやバナビーに劣るものではない。
しかし。
場数と、何より命を懸けた大一番における胆力の差はどうしても、大戦期を戦い抜いた英雄二人には一歩及ばなかった。
自身の左手を見つめれば、皮手袋に包まれた五指が、まるで寒風に晒された木の葉のように小刻みに震えている。抑え込もうとすればするほど、筋肉は強張り、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに跳ね上がった。
「……緊張しておりますな、アルト殿」
バナビーはその震えに気づき、咎めるような色を一切見せず、ただ慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべた。
「……ええ、お恥ずかしながら」
アルトは自嘲気味に息を吐き出し、視線を落とした。
「ノクティア様にお仕えするようになってから、何度か死線を潜り、修羅場を経験した自負はありました。……ですが、ここぞという本当の大一番、命運が自らの双肩にかかるような瞬間では……まだ、どうしても手が震えてしまう。情けない話です」
「何が、恥ずかしいことがありましょうか」
バナビーは静かに、けれど明確な確信を持って首を振った。
「戦場で本当に生き残るのは、いつだって、自らの死を正しく恐れる臆病者です。己の強さに溺れ、蛮勇に身を任せて突撃した者たちは、誰も彼も、歴史の泡となって名すら残さずに死んでいった。あなたのその手の震えは、あなたが今、命の重さを正しく理解している証左なのですよ」
「……そうでしょうか。ならば、バナビー殿。私たちが目指すべき、真の勇気とは、一体何なのですか?」
アルトは、眼帯に覆われていない左目で、老騎士の刻まれた深い皺の奥を見つめた。
恐怖を感じないのが強者ならば、この震えはやはり弱さではないのか。その答えを、彼は求めていた。
バナビーはアルトの問いを受けると、しばし考えるように視線を天へと向けた。
遠い過去の、血と硝子が入り乱れた戦場の記憶を、あるいは共に戦った戦友たちの顔を呼び覚ますように。
「――恐怖を、乗り越えることでしょうな」
バナビーの声が、一段と深みを増す。
「そこにある絶望から目を背けず、真っ向から見見据え、全身が震えきったその上で。……それでも、前へ進むために足を踏み出す。その一歩の選択を、我々は、勇気と呼ぶのでしょう」
老騎士の瞳に、懐かしさと、言葉にできないほど深い敬意の色が宿った。
「あなたのお父様も、そうでした」
「……父上、ですか?」
アルトの身体が、微かに強張った。
タラゼド・オレオーン。かつての大戦において、ヴァルゴ王国の絶対的な盾として君臨した男。
"不落の獅子"、あるいは、どれほど斬り裂かれ、どれほど叩かれようとも決して沈まぬ太陽。アルトにとっての父は、恐怖などという感情とは無縁の、鋼鉄の巨人のような存在だった。
「ええ。オレオーン殿は、誰よりも死を、そして敗北を恐れていた。私は何度も彼の背中を見てきましたが、彼は出陣の前、いつもあなたと同じように、剣を握る手を血が滲むほど強く締め付け、震えを殺していた。……恐れていたからこそ、彼は一分の妥協も許さず、すべての敵を完璧に排除する戦術を練り上げた。恐怖を超克したからこそ、彼は英雄となったのです」
「父上も……恐れていた……」
アルトの胸の内で、何かが音を立てて崩れ、そして再構築されていった。
完璧だと思っていた父の背中。その裏にあったのは、天性の無敵などではなく、這いつくばるような恐怖を自らの意志で捻じ伏せ続けた、執念の軌跡だったのだ。
「ええ、恐らく、誰よりも強く。……だからこそ、周囲の我々は、その恐怖を完全に制御し、戦場に傲然と立ち続ける彼の姿に、底知れない畏怖を覚えた。恐怖の支配。死の超克。……オレオーン殿は、自身の弱さを知るがゆえに、誰よりも強かったのです」
バナビーの言葉のすべてを、今のアルトが完全に咀嚼できたわけではなかった。それを真に理解し、自らの血肉とするには、彼にはまだ騎士としての、そして人生の経験が足りない。
けれど、握られた"アルシャイン"の柄から伝わる冷たい金属の感触が、今はひどく愛おしく、そして頼もしく感じられた。手の震えは止まらない。だが、それはもはや弱さの証明ではなかった。戦うための、命の脈動だった。
「……さあ、時間ですぞ、アルト殿。黄昏が終わり、世界の色相が反転する」
バナビーがゆっくりと、大盾を構え直した。その巨躯から、静かに、けれど防ぎようのない魔力のプレッシャーが滲み出す。
「今こそ、あなたにも。あの偉大な父親の背中に並ぶ、英雄になるべき時がやってきたのです。……王国の若き獅子よ、その牙を剥きなさい」
その言葉は、アルトの魂の最深部に燻っていた火種に、一気に油を注ぎ込んだ。
「……ええ。お任せください、バナビー殿」
アルトは力強く頷いた。
彼は深く息を吸い、肺を満たす死臭ごと、自らの覚悟を固定する。
そして――ガタガタと震え続ける両手で、鞘から一気に聖剣を、その白銀の刃を抜き放った。
キィィィィィィィンッ!!
地獄の底のような遺棄層の闇を、純白の、まばゆい光の奔流が切り裂いた。
聖剣"アルシャイン"の解放。
それは、周囲の影を焼き尽くし、玉座に座る"青ひげ"の顔を真っ白に照らし出すほどの、圧倒的な星の輝き。
それを合図に、アルトは絶壁の縁から、迷うことなく深淵へと飛び降りた。
眩むほどに眩い聖剣の光が、闇に沈んでいた遺棄層を白日の下に晒していく。
これこそが、プレアデス聖教国の暗部を打ち砕く、今宵の戦いの苛烈なる嚆矢であった。




