254話「小夜啼鳥の忠言」
「……対帝国を、あなたたちに任せる? 一体、どういうことかしら?」
リラの突拍子もない言葉に、私の思考は一瞬にして完全にフリーズした。
回廊を優しく包んでいたはずの朝霧が、まるで急に冷え切った氷の壁のように私たちの間に立ち塞がっている感覚を覚える。
対帝国をプレアデスに任せる。
それは、私の旅の目的、私の戦う意義、そして私が"こはる"としての過去を振り切ってまで手に入れた硝子の翼の存在意義を、根底から否定されるような提案だった。
「そのままの意味だよぉ、ノクティアちゃん」
リラはヴェールの奥でクスクスと、鈴を転がすような軽い笑い声を漏らした。その態度には、世界の命運を左右するような大それた決断を口にしているという自覚が、これっぽっちも見当たらない。
「私たちがぁ、あの厄介な"マッチ売りの少女"を止めるの。だからぁ、ノクティアたちはぁ、グラスベル領を守るのだけに専念すればいいんじゃないかなぁってぇ、そう思っただけだよぉ」
「そんな話を、私が素直に飲むと思ったの?」
私はリラを鋭く睨みつけた。
怒りで声が僅かに震える。私の背中の奥で、日没前ゆえに身を潜めているはずの硝子の熱が、チリチリと不快な音を立てて疼くのを感じた。
自分の領地を守るだけに専念しろ、だと?
それはあまりにも都合の良い、耳触りの良い引き籠もりの勧告だ。帝国が世界を焼き尽くさんと動いているこの非常時に、私たちだけが安全な田舎に引っ込んでいろと言うのだ。
そんなことをすれば、帝国が他国を蹂躙し、より強大な力を得た後に、結局は我が家も焼き尽くされるに決まっている。
何より、それでは私は"守られるだけの無力な姫"に逆戻りだ。
私はリラのヴェールの奥にあるはずの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、一歩も引かない姿勢を示した。
リラは私のその頑なな視線をまともに受け止め、しばらくの間、意味ありげに沈黙を守っていた。霧の向こうで彼女の纏う白い法衣がゆらりと揺れる。
やがて、彼女は呆れたように大袈裟に両肩を竦めてみせた。
「……飲まない、だろうねぇ。そういうタチだもん、君もねぇ。リゲルのために命を懸けたり、上位互換の"氷の女王"と真っ向から殴り合ったりするような子がさぁ、はいそうですかって大人しく引っ込むわけないよねぇ」
「分かっているなら、なんでそんな意味のないことを聞いたのよ。意味が――」
意味がわからない。そう言葉を続けようとした私の唇に、不意に冷たい感触が押し当てられた。
「……っ」
リラの人差し指だった。
いつの間に間合いを詰めたのか。彼女の細く、冷え切った指先が、私の唇を優しく、けれど絶対に言葉を漏らさないという強い意志を持って塞いでいた。彼女の身に纏う香油の匂いが、一瞬で私の嗅覚を支配する。
「……意味なら、あったよぉ。少なくとも、私と君との"関係"は、これでハッキリと決まったからねぇ」
「……何の話よ、それ」
リラが指を離すと同時に、私は一歩後退して彼女から距離を取った。唇に残る冷たい感触が、妙に気味悪く、そして不吉に尾を引いている。
関係が決まった、とはどういうことか。私がプレアデスの提案を拒絶したことで、私たちは敵対関係になったとでも言うのだろうか。
それとも、なにか――別の意味があるのか。
「ううん、気にしないでぇ。深い意味なんてなぁんにも無いよぉ」
リラは再び、いつもの間延びした、掴みどころのない道化の口調へと戻っていった。
「ノクティアはぁ、難しいことは考えずに、"根源"の修行、頑張らないとぉ。エレクトリアにボコボコにされてるようじゃあ、帝国に届く前に灰にされちゃうからねぇ」
彼女はそう言い残すと、ひらひらと手を振りながら、回廊の奥へと去っていこうとした。その背中は、やはり重力を感じさせないほどに軽やかで、どこか現実味を欠いている。
しかし、私はそんな彼女の背中に向けて、鋭く声をかけた。
「……ちょっと待って。リラ、こっちの話はまだ、終わっちゃいないわ」
呼び止められたリラは、大袈裟に首を傾げて振り返った。
「なあにぃ? ノクティアちゃん。私の方にはぁ、もう話すことなんてなぁに無いんだけどなぁ?」
「ある、でしょう? 意味ありげな匂わせだけを残して、私の心をかき乱すだけかき乱して立ち去るなんて、もう勘弁してよ。あなたがわざわざ朝のこの時間に私を呼び出したのには、あの突拍子もない提案以外にも、何か理由があるはずよ」
私は確信していた。リラ・マイアという女は、無駄な動きを一切しない。彼女の言葉、彼女の所作、そのすべてが百年以上もの時間を経て練り上げられた"物語の演出"なのだ。あんな拒絶されることが分かっている提案だけで、わざわざ足を運ぶはずがない。
私の追及に、リラは今度こそ本当に諦めたように、はぁ、と長い溜息を吐き出して肩を落とした。
「……カンが良すぎるのも、問題だねぇ。そういう可愛い気のないところ、カノンにそっくりだよぉ、君」
彼女はそうぼやくと、一歩、二歩と、今度はゆっくりとした確実な足取りで私との間合いを詰めてきた。そして、私の耳元に顔を近づけると、拍子抜けするほど軽い口調で、こう囁いた。
「――エレクトリアから伝言だよぉ。今日は忙しいから、夜の修行の時間は無しだってぇ」
「……は?」
あまりにも想定外の、そして拍子抜けする内容に、私は思わず面食らってしまった。
「修行が……無しの? 今日は?」
「そう、それだけだよぉ。毎日の疲れもあるだろうし、今日は一日ゆっくり休むといいよぉ。美味しいものでも食べてさぁ、お仲間とお喋りでもしてたらぁ?」
リラはからかうように目を細めて笑った。
私はなんだか、狐に包まれたような気分になりながらも、急に訪れた空白の一日に対する違和感を拭えずにいた。
エレクトリアが忙しい?
あの、規律の塊のようで、"姫"を磨き上げることにしか興味のなさそうだった冷徹な聖女が、修行を休むほどの用事とは一体何だろうか。最高司教カリオペの命令か、それとも国の一大事か。
今朝の食堂でカノンが言っていた帝国の不穏な沈黙や、シャウルの妙に上の空だった様子が、私の脳裏で最悪の形で結びつきそうになる。
「……本当に、それだけ?」
「それだけだよぉ。深読みしすぎるとぉ、頭蓋骨がパリンって割れちゃうよぉ? それこそ、硝子みたいにねぇ」
リラはクスクスと笑いながら、今度こそ本当に私に背を向けて歩き出した。
からかわれたのだろうか。私は少しだけ不満を覚えて、子供のように頬を僅かに膨らませた。しかし、彼女をこれ以上引き留める正当な理由も思い浮かばず、私はただ遠ざかる白い法衣を見送るしかなかった。
だが。
リラの姿が、回廊の角を曲がって完全に消え去ろうとした、まさにその刹那だった。
彼女の歩みが、一瞬だけピタリと止まった。
振り返ることはなかった。けれど、彼女から放たれた空気の密度が、一瞬にして爆発的に跳ね上がるのを、私の魔力肌が敏感に察知した。
「――大事なものは、ちゃあんと見ておきなよ」
間延びした調子のない、低く、冷徹な地声。
それは、私の緩みかけた心に、鋭利な冷水を浴びせるかのような、警告の響きを持っていた。
「……っ、それって、どういう――!?」
その真意を確かめようと、私が弾かれたように駆け出し、回廊の角を振り返った時。
――既に、リラの姿はどこにもなかった。
白亜の回廊には、ただ朝の冷たい霧が不気味に滞留しているだけ。足音も、衣の擦れる音も、何一つ残されていない。
ただ、窓の外から、パサパサと羽撃く音が聞こえた。
目をやれば、一匹の小さな小夜啼鳥が、私を侮るように一度だけ鋭く鳴き、アルキオネの白い霧の彼方へと、まっすぐに飛んでいくところだった。




