253話「提案」
中庭付近に位置する、どこまでも長く、そして不自然なほど静まり返った回廊。
天井は高く、プレアデス特有の白大理石が幾何学的な模様を描いて並んでいる。壁面に嵌め込まれた細長い窓からは、朝の乳白色の霧が光の帯となって差し込み、私たちの足元を頼りなく照らしていた。
リラ・マイアは、私の数歩前を歩いていた。
法衣の裾を床に擦らせながら、まるで重力を持たない亡霊のように緩慢な足取りで進む。彼女の足音は、この静謐な回廊において、驚くほど響かない。それがかえって、私の警戒心をじりじりと刺激していた。
「ノクティアぁ、修行、順調だねぇ」
リラは振り返ることもなく、ヴェールの下からいつもの間延びした声を出した。
「どう? エレクトリアとの訓練を始めて二日。……そろそろ、彼女には勝てそうかなぁ?」
その問いかけに、私は一瞬、言葉を詰まらせた。
自らの内にある"根源"の感触。胸の奥で燻り続ける冷たい熱と、背中に馴染みつつある四枚の硝子の翼。確かに私は強くなっている。かつてないほどに、物語の力をこの肉体と同調させられている。
けれど。
「……悔しいけれど、まだ、勝てそうにはないわね」
私は自嘲気味に息を吐き出し、正直な胸の内を明かした。見栄を張っても仕方のない相手だ。
「エレクトリア……彼女の実力は、底が知れないわ。単純な魔力の総量だけじゃない。戦闘における無駄のなさ、そしてこちらの魔法を正確に断ち切ってくるあの戦技。……私の知る限り、あのカノン並みか、あるいはそれ以上の化け物よ」
「へぇぇ、エレクトリアをそこまで評価するんだぁ。おもしろいねぇ」
リラは小さく肩を揺らして笑う。
「でもぉ、君は一度、カノンには勝っているんでしょぉ? ヴァルゴ王国の"星の塔"での決闘……風の噂で、私の耳にも届いているよぉ」
「それは……たまたまよ。二度やってと言われても、次はできないわ」
私の脳裏に、あの塔の最上階での、綱渡りのような死闘が蘇る。
カノン・ドロテア=エメラルダが振るった、物理法則を歪める"ドロシー"の変身魔法。あの時の私は、本当にギリギリのやり取りの中で、ただ運命の天秤がたまたま私の側に傾いたに過ぎない。
偶然"根源"の一端を振るえなければ、あるいは彼女の側にほんの少しの幸運が味方していれば、私は今、ここに立っていない。
私の冷徹な自己分析を聞くと、リラは歩みを止めることなく、大袈裟に両肩を竦めてみせた。
「そう、じゃあ……無理だねぇ」
「……? 無理って、何がかしら」
「打倒、帝国。……あの国を率いている"マッチ売りの少女"はねぇ、カノンやエレクトリアよりも、ずっと、ずぅっと強いよぉ」
彼女の喋り方は、いつもと変わらない、緊張感を欠いた間延びしたものだった。
けれど、その言葉の裏に隠された、冷たい鉄のような確信の響きを、私の耳は見逃さなかった。
「……あなたも、彼女の強さを知っているのね」
私はリラの背中を見つめながら、一歩、歩幅を早めた。
かつて、王国で、アルフェッカから聞かされた古い物語がある。
大戦期。世界を呪い、あらゆる運命を業火で焼き尽くさんとした"マッチ売りの少女"。その圧倒的な絶望のプロットを書き換えるために、世界の命運を懸けて立ちふさがった四人の姫がいた、と。
「勿論、知っているよぉ」
リラは滑るように歩き続けながら、どこか遠い国を眺めるような声音で語り続ける。
「聞いたこと、ないかなぁ? 大戦の裏で繰り広げられていた――それこそ、この世界のすべての理を賭けた、姫同士の衝突の話をさぁ」
「断片的にはね。世界を滅ぼそうとした彼女を止めるために、当代最高の力を持った姫たちが命を懸けて戦ったと聞いているわ」
「そうそう。……"喰らってしまった人魚姫"、"帰れなかったドロシー・ゲイン"、"芽吹いてしまった髪長姫"……そこに、私、"帰らなかった小夜啼鳥"を加えた四人だよぉ」
リラの口から紡がれた、四つの物語の異名。
その名前を聞くだけで、私の肌にチリチリとした魔力の圧迫感が伝わってくるようだった。
人魚姫――最強の"姫"と呼ばれているアケルナル。
ドロシー・ゲイン――卓越した実力を持つ"姫"であるカノン。
髪長姫――銀髪の賢者にして、王国の守護者、アルフェッカ。
そして、目の前を歩く小夜啼鳥、リラ・マイア。
「……錚々たる面々ね。それだけの戦力が集まれば、世界の一つや二つ、簡単に滅ぼせてしまいそうだわ」
「まあ、世界を本当に滅ぼさんとする脅威が相手だったからねぇ。真っ向からねじ伏せんとするならぁ、これくらいで戦力としては、ようやく適正だったんだよぉ。それくらい、あの時のあの子が放つ炎は、理不尽そのものだったのさぁ」
リラの話は、歴史書の記述というよりも、自らの身体に刻まれた傷跡をなぞるような、生々しいリアリティを持っていた。
――だが。
そこでリラは、不意にその場に足を止めた。
リラの長い法衣が、床の上で静かに動きを止める。
彼女はゆっくりと振り返った。白いヴェールの奥にあるはずの瞳が、私を真っ直ぐに捉えているのが分かった。
彼女の肩が、僅かに強張る。
次の瞬間、彼女の口から漏れた声は、先ほどまでのふざけたような、間延びした調べを完全に喪失していた。
「――それでも、アケルの力は大きかった。あの子がいたから、私たちは"マッチ売りの少女"を抑え込むことができたんだ」
それは、鈴を転がすような美しさはそのままに、極限まで研ぎ澄まされた一本の剣のような、凛とした、あまりにも重い声だった。
アケル。
"喰らってしまった人魚姫"、アケルナル。
しかし、彼女は今、帝国の手に落ちてしまっている。当然だが、手を貸してもらうことなどできない。
「……リラ、そろそろ本題に入って頂戴」
私は、自らの胸に手を当て、内なる硝子の魔力を僅かにたぎらせた。
リラから発せられる、この異常なまでの緊張感。普段の彼女がどれほど巧妙におどけた道化を演じているのかが、今の声一つで分かってしまった。
「まさか、私に昔話を聞かせて、私の戦意を削ぐためにわざわざこんな場所まで呼び出したわけじゃないでしょう? あなたに漂うその違和感の正体……私に、見せてくれないかしら」
私は一歩、彼女に向けて踏み込んだ。
そして、一人の"姫"としての、譲れない一線を突きつける。
それに応えるように、リラはヴェールの奥で、小さく、深く頷いた。
「そうだねぇ、それじゃあ、本題なんだけどさ――」
しかし。
次に彼女の口から発せられた言葉は、拍子抜けするほどに、いつもの"リラ・マイア"に戻っていた。
先ほどまでの凛とした刃のような空気は一瞬で霧散し、何事もなかったかのように、間延びした、掴みどころのないおどけた調子へと、振る舞いが巻き戻される。
その徹底した自己管理の不気味さに、私は目を見張るしかなかった。
リラは、首を少しだけ横に傾け、まるで親しい友人に「今日のお昼は何にする?」とでも尋ねるような軽さで、その恐るべき提案を口にした。
「――対帝国、私たちに任せてくれないかなぁ?」
回廊の窓から差し込む朝霧の光が、彼女の白い姿を一層曖昧に、そして不気味に境界線をぼかしていった。




