239話「決別」
冬の朝の、突き刺すような透明な空気。
私の手を握るちはるの小さな温もり。それが、今の私にはこの世で最も残酷な重石のように感じられた。
「――ええ、勿論よ。ちゃんと帰るから、楽しみに待っていてね」
私は、自分でも驚くほど滑らかな作り笑顔を浮かべて答えた。
頬の筋肉が強張り、引き攣れそうになるのを、精神の力だけで抑え込む。
それは、守ることができない約束だ。
そして、かつて守ることができなかった約束だ。
けれど、今の私にはそう答えることしかできなかったし、そう答えるべきなのだと、魂の深層が理解していた。
なぜなら、私は"間に合わなかったシンデレラ"なのだから。
あの時、もし私が約束を守り、時間通りに家に帰り着いていたら。
この手に"ちはる"という未来を残せていたら。
私は今、この白亜の聖教国には立っていない。レグルス砦で兵士たちを鼓舞することも、エリダヌスの水の都で世界の命運を懸けた会議に臨むことも、ガーランドの極寒の地でリゲルの心を溶かすこともなかっただろう。
私の"遅刻"が、この世界の誰かの"救済"に繋がった。
私の"喪失"が、この世界の誰かの"生存"を担保した。
皮肉で、残酷で、けれど抗いようのないプロット。
だから、私はここでもう一度、最愛の妹の手を手放さなければならない。
彼女を、再びあの炎の中へ送り出すために。
「お姉ちゃん、絶対だよ! 指切りね!」
「ええ……。絶対よ」
絡めた小指の感触が、氷のように冷たく、そして熱く、私の記憶を焼き切っていった。
「――こはる、こはるっ!」
不意に、世界の音が書き換えられた。
穏やかな冬の朝の喧騒は、爆ぜる火の粉の音と、肺を焼く煙の苦しさに取って代わられた。
視界を埋め尽くすのは、狂ったように踊るオレンジ色の舌。
見れば、時間はすでに巻き戻しようのない地点まで加速していた。
私の生家は炎に包まれている。
柱が崩れ、壁が焼け落ち、愛用していた家具も、ちはると背比べをした柱の傷も、何もかもが炭化し、形を失っていく。
記憶の中と同じ、喪失の炎。
これは、こはるという一人の少女が犯した罪の証だ。
妹との約束を小銭のために売り渡し、救えるはずの命を見殺しにした。その事実を、私は生涯、呪いとして背負い続けていく。
「――ごめんね、お母さん」
傍らで、狂乱したように私の名を呼び、火の中に飛び込もうとする母の姿があった。
私は、ノクティアとしての冷徹な視線を保ったまま、その背中に向けて掠れた声を紡ぐ。
けれど、その謝罪も、彼女に届くことはない。
ここは私の"物語"の内側。
既に完結し、閉ざされてしまった過去という名の標本箱。
そこで藻掻く人々は、私の良心が作り出した幻影に過ぎない。
「いってきます。……大切なものを、守るために」
私は、母の泣き声を背中に受けながら、一歩を踏み出した。
逃げ出すのではない。向かうのだ。
轟々と燃え盛る、地獄の入り口へ。
一歩歩くごとに、私の身体を縛っていた"こはる"という殻が、熱に焼かれて剥がれ落ちていく。
黒髪は、煤を払うように銀色へと染まり。
華奢な女子高生の身体は、凛とした曲線を描くノクティア・グラスベルへと変貌していく。
火の粉をドレスで払い、私は迷わず奥へと進む。
そこは、私が一度死に、そして"ノクティア"としての産声を上げた聖域。
崩れ落ちた梁を飛び越え、私は最期の場所に辿り着いた。
かつてのリビング。
そこには、この後すぐに瓦礫に押し潰され、物言わぬ肉塊へと変わってしまう"ちはる"が待っているはずだった。
けれど、そこにいたのは、血の繋がった妹ではなかった。
「――あなたは、それでいいのですね?」
煤けたフードを深く被った少女が、そこに立っていた。
彼女の周囲では、火に焚べられたマッチの残り火のような、凶々しい赤黒い炎が渦巻いている。
すべてを焼き尽くし、世界を呪い、運命という名の残酷さに唾を吐きかける呪いの化身。
――"マッチ売りの少女"。
なるほど、と私は思った。
彼女と私は、鏡合わせの存在なのだ。
絶望を"復讐"に変え、すべてを灰にしようとする彼女。
絶望を"覚悟"に変え、何としても目の前のものを守ろうとする私。
どちらも、炎にまつわる、絶望の底から現れた"姫"――けれど、歩んできた道も、これから歩む道も、何もかもが違う。
「ええ、いいわ。私の現実は、こちらだもの」
私は、"マッチ売りの少女"を真っ直ぐに見据えて言い放った。
ちはるへの悔恨を捨てるのではない。
その悔恨という名の燃料を使い、私は私の物語を加速させる。
その言葉と同時に、私は右手を虚空へと翳した。
呼応するように、私の背中から、透明で鋭利な"何か"が爆発的に吹き上がる。
それは、かつてカノンとの死闘で見せた、あの不完全な硝子の翼。
けれど、今、顕現しているそれは、あの時よりも遥かに明瞭で、鋼のような強度と、太陽光を乱反射させるような圧倒的な存在感を放っていた。
「――気付いていたのよ、最初から。私の中に燻り、私を突き動かしてきた、この"熱"の正体に」
背から伸びた、溶けた硝子の翼。
それは慈悲の翼ではない。
すべてを拒絶し、貫き、そして再生させるための、"根源"の輝き。
翼が大きく羽ばたいた瞬間。
燃え盛る家が、汚れた大気が、私を閉じ込めていた過去という名の世界そのものが、凄まじい衝撃と共に打ち砕かれていく。
パリン、パリンと、空がガラス細工のように剥落していく。
その崩壊の光の中で、彼女――"マッチ売りの少女"は、表情を変えぬまま、不敵な笑みを口元に浮かべていた。
「見事です。……それでは、その翼で、どこまで飛べるか見せていただきましょう。……ノクティア・グラスベル」
彼女の姿が炎の中に溶け、消えていく。
私は、砕け散る世界の中心で、銀色の瞳を鋭く輝かせた。
さらば、こはる。
さらば、間に合わなかった私。




