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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
19章「決意と裏面と災禍の足音」
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239話「決別」


 冬の朝の、突き刺すような透明な空気。


 私の手を握るちはるの小さな温もり。それが、今の私にはこの世で最も残酷な重石のように感じられた。



「――ええ、勿論よ。ちゃんと帰るから、楽しみに待っていてね」



 私は、自分でも驚くほど滑らかな作り笑顔を浮かべて答えた。


 頬の筋肉が強張り、引き攣れそうになるのを、精神の力だけで抑え込む。


 それは、守ることができない約束だ。

 そして、かつて守ることができなかった約束だ。


 けれど、今の私にはそう答えることしかできなかったし、そう答えるべきなのだと、魂の深層が理解していた。 


 なぜなら、私は"間に合わなかったシンデレラ"なのだから。


 あの時、もし私が約束を守り、時間通りに家に帰り着いていたら。

 この手に"ちはる"という未来を残せていたら。


 私は今、この白亜の聖教国には立っていない。レグルス砦で兵士たちを鼓舞することも、エリダヌスの水の都で世界の命運を懸けた会議に臨むことも、ガーランドの極寒の地でリゲルの心を溶かすこともなかっただろう。


 私の"遅刻"が、この世界の誰かの"救済"に繋がった。

 私の"喪失"が、この世界の誰かの"生存"を担保した。

 

 皮肉で、残酷で、けれど抗いようのないプロット。


 だから、私はここでもう一度、最愛の妹の手を手放さなければならない。


 彼女を、再びあの炎の中へ送り出すために。


「お姉ちゃん、絶対だよ! 指切りね!」


「ええ……。絶対よ」


 絡めた小指の感触が、氷のように冷たく、そして熱く、私の記憶を焼き切っていった。




「――こはる、こはるっ!」



 不意に、世界の音が書き換えられた。

 

 穏やかな冬の朝の喧騒は、爆ぜる火の粉の音と、肺を焼く煙の苦しさに取って代わられた。


 視界を埋め尽くすのは、狂ったように踊るオレンジ色の舌。

 

 見れば、時間はすでに巻き戻しようのない地点まで加速していた。


 私の生家は炎に包まれている。


 柱が崩れ、壁が焼け落ち、愛用していた家具も、ちはると背比べをした柱の傷も、何もかもが炭化し、形を失っていく。

 

 記憶の中と同じ、喪失の炎。


 これは、こはるという一人の少女が犯した罪の証だ。


 妹との約束を小銭のために売り渡し、救えるはずの命を見殺しにした。その事実を、私は生涯、呪いとして背負い続けていく。


「――ごめんね、お母さん」


 傍らで、狂乱したように私の名を呼び、火の中に飛び込もうとする母の姿があった。


 私は、ノクティアとしての冷徹な視線を保ったまま、その背中に向けて掠れた声を紡ぐ。

 

 けれど、その謝罪も、彼女に届くことはない。


 ここは私の"物語"の内側。

 既に完結し、閉ざされてしまった過去という名の標本箱。


 そこで藻掻く人々は、私の良心が作り出した幻影に過ぎない。


「いってきます。……大切なものを、守るために」


 私は、母の泣き声を背中に受けながら、一歩を踏み出した。


 逃げ出すのではない。向かうのだ。

 轟々と燃え盛る、地獄の入り口へ。


 一歩歩くごとに、私の身体を縛っていた"こはる"という殻が、熱に焼かれて剥がれ落ちていく。


 黒髪は、煤を払うように銀色へと染まり。


 華奢な女子高生の身体は、凛とした曲線を描くノクティア・グラスベルへと変貌していく。


 火の粉をドレスで払い、私は迷わず奥へと進む。


 そこは、私が一度死に、そして"ノクティア"としての産声を上げた聖域。


 崩れ落ちた梁を飛び越え、私は最期の場所に辿り着いた。


 かつてのリビング。


 そこには、この後すぐに瓦礫に押し潰され、物言わぬ肉塊へと変わってしまう"ちはる"が待っているはずだった。


 けれど、そこにいたのは、血の繋がった妹ではなかった。



「――あなたは、それでいいのですね?」



 煤けたフードを深く被った少女が、そこに立っていた。

 

 彼女の周囲では、火に焚べられたマッチの残り火のような、凶々しい赤黒い炎が渦巻いている。


 すべてを焼き尽くし、世界を呪い、運命という名の残酷さに唾を吐きかける呪いの化身。


 ――"マッチ売りの少女"。


 なるほど、と私は思った。

 彼女と私は、鏡合わせの存在なのだ。

 

 絶望を"復讐"に変え、すべてを灰にしようとする彼女。

 絶望を"覚悟"に変え、何としても目の前のものを守ろうとする私。

 

 どちらも、炎にまつわる、絶望の底から現れた"姫"――けれど、歩んできた道も、これから歩む道も、何もかもが違う。


「ええ、いいわ。私の現実は、こちらだもの」


 私は、"マッチ売りの少女"を真っ直ぐに見据えて言い放った。


 ちはるへの悔恨を捨てるのではない。


 その悔恨という名の燃料を使い、私は私の物語を加速させる。


 その言葉と同時に、私は右手を虚空へと翳した。

 

 呼応するように、私の背中から、透明で鋭利な"何か"が爆発的に吹き上がる。


 それは、かつてカノンとの死闘で見せた、あの不完全な硝子の翼。


 けれど、今、顕現しているそれは、あの時よりも遥かに明瞭で、鋼のような強度と、太陽光を乱反射させるような圧倒的な存在感を放っていた。


「――気付いていたのよ、最初から。私の中に燻り、私を突き動かしてきた、この"熱"の正体に」


 背から伸びた、溶けた硝子の翼。

 それは慈悲の翼ではない。


 すべてを拒絶し、貫き、そして再生させるための、"根源"の輝き。


 翼が大きく羽ばたいた瞬間。


 燃え盛る家が、汚れた大気が、私を閉じ込めていた過去という名の世界そのものが、凄まじい衝撃と共に打ち砕かれていく。


 パリン、パリンと、空がガラス細工のように剥落していく。

 

 その崩壊の光の中で、彼女――"マッチ売りの少女"は、表情を変えぬまま、不敵な笑みを口元に浮かべていた。



「見事です。……それでは、その翼で、どこまで飛べるか見せていただきましょう。……ノクティア・グラスベル」



 彼女の姿が炎の中に溶け、消えていく。

 

 私は、砕け散る世界の中心で、銀色の瞳を鋭く輝かせた。

 

 さらば、こはる。

 さらば、間に合わなかった私。


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