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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
19章「決意と裏面と災禍の足音」
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240話「次の修行へ」


 "門"から踏み出した瞬間、私の肌を打ったのは、凍てつくような鍛錬場の空気だった。


 つい数瞬前まで、私の全身を焼き、肺を焦がしていたあの業火の熱狂は、幻影のごとく霧散している。だが、私の心臓の奥底に灯った冷たい熱だけは、今もなお、激しく脈動を続けていた。


「お嬢様、戻ってきたっすー! ……す?」


 真っ先に駆け寄ってきたシャウルが、私の目の前でピタリと足を止めた。


 その丸い瞳はこれ以上ないほどに見開かれ、開いた口が塞がらないといった様子で、私の背後を凝視している。


「っす!? お、お嬢様……なんか、背中から、ものすごく綺麗なの生えてるっすよ!?」


「ふふ、いいでしょ? これが私の……新しい力なの」


 シャウルの驚愕に、私は少しだけ誇らしい気持ちで微笑んだ。


 意識を向ければ、私の背中には、かつての不完全な"溶けた硝子"ではない、明瞭な実体を持った一対の翼が顕現していた。


 それは、この世のどんな宝石よりも透き通り、それでいてダイヤモンドをも切り裂くような鋭利なエッジを持った、硝子の翼。


 物理的な重さは感じない。それは私の魔力、ひいては物語の"根源"が直接形を成したものだから。私が喜びを感じれば、それはプリズムのように七色の光を反射し、私が決意を固めれば、銀色の冷徹な輝きを放つ。

 

 今は、私の充足感に呼応するように、サラサラと微細な硝子の粉を振りまきながら、羽衣のように優雅にたなびいていた。


「これがあれば、もう地面を走るだけじゃなくて、もっと自由に、もっと速く戦えるわ」


「すごっ……、本物の天使みたいっす。でも、それで寝る時とか邪魔にならないっすか?」


「……寝るときまで魔法出しっぱなわけないでしょ。それに、私の魔法は、ずっと使えるものではないもの」


 シャウルの現実的な心配に苦笑しながらも、私はその翼を一度大きく羽ばたかせた。


 同時に、音を起てて翼は砕け散った。あの"門"の中では問題なく発現したが、やはり私の魔法の成約――日没から日付が変わるまでというのは、曲げられないもののようだ。


「へえ、思ってたよりもずっと早かったねぇ」


 硝子の粉が舞う中を、ゆったりとした足取りで一人の人影が近づいてきた。


 リラ・マイア。


 彼女はいつも通りの、掴みどころのない微笑をヴェールの下に湛えていたが、その声には隠しきれない驚きが混じっていた。


「こんなに早く"門"の試練を越えちゃうなんてぇ。私の知る限り、このプレアデスでも八十年ぶりくらいなんじゃないかなぁ?」


「八十年……。そんなに珍しいことなの?」


「珍しいどころじゃないよぉ。あの試練はねぇ、自分の過去を、単なる思い出じゃなく、血肉として喰らい尽くさなきゃいけないからねぇ。たいていの姫は、その葛藤に耐えられずに発狂するか、あるいは自分自身を殺して抜け殻になっちゃうものなんだけどぉ……」


 リラは鈴を転がすような声で笑いながら、まじまじと私を見つめた。


「君は、そのどちらでもない。過去を殺さず、かといって溺れもせず、ただそれを受け入れたまま"今"を肯定した。……まさに、物語の(シンデレラ)逆転劇(ストーリー)だねぇ」


 リラからの賞賛。けれど、今の私には、彼女に確かめておきたいことがあった。


 あの燃える家の中で、私を待っていた"彼女"の存在。


 あれは単なる、私の記憶が見せた幻覚だったのだろうか。


「……ねえ、リラ。一つ聞いてもいいかしら?」


「ん? なぁに、ノクティア」


「もしかして、かつて……"マッチ売りの少女"も、この試練を受けたことがあるんじゃない?」


 私の問いに、リラの動きが微かに止まった。


 プレアデス聖教国は中立国だが、その実態は"物語"の管理者だ。かつて帝国が台頭する前、あるいは"マッチ売りの少女"がまだ一人の"姫"として未完成だった頃に、この地を訪れていたとしても不思議ではない。


「……へえ、どうして、そう思うの?」


「……彼女の"熱"が、あの門の向こうに残っていた気がするから。同じ"炎"や"灰"をルーツにする姫だからかしら。彼女がかつて、私と同じようにあの場所に立ち、同じように絶望を噛み締めた……。そんな感覚が、分かったような気がするのよ」


 それは、半分は事実で、半分は方便だった。


 実際のところ、あの試練の記憶の中にいたアンタレスは、あまりに不自然だった。


 あの世界は私の深層心理を反映した場所であるはずなのに、彼女は明らかに、私とは独立した意志を持ってそこにいた。


「ふうん……。変わったこともあるもんだねぇ。そんな話、私は初めて聞いたよぉ」


 リラは意外そうに首を傾げた。


 彼女が知らないのか、あるいは隠しているのか。ヴェールの奥の瞳は読めない。


「まあ、世の中には私たちの理解を超えた展開もあるしねぇ。……それとも、彼女の物語が君の物語に、何らかの伏線を残していったのかなぁ?」


「……かもしれないわね。でも、もういいわ。とにかく、これで私は次の修行に進めるのでしょう?」


「うん、進めるよぉ。もっとも、これからは自分の心と戦うだけじゃなくて、実戦形式で物語の"格"を磨いてもらうことになるけどねぇ」


 リラがそこまで口にした、その時だった。



 第一鍛錬場の重厚な扉が開き、新たな来訪者が現れた。



 高く、凛とした足音。


 そこに立っていたのは、カリオペ最高司教との謁見の際、その左右に控えていた二人の姫のうちの一人だった。


 背が高く、モデルのようにすらりとした四肢を、プレアデス特有の清浄な法衣に包んでいる。頭部を覆っていた薄いヴェールが、彼女の静かな所作によってゆっくりと取り払われた。


 現れたのは、知性的でどこか冷徹な美貌を持つ、銀髪の女性だった。


 彼女の瞳には、感情の揺らぎがほとんどない。けれど、そこから放たれる魔力の圧力は、昨日の聖教騎士とは比較にならないほど密度が高く、鋭かった。



「――試練の突破、おめでとうございまス」



 女性にしては低く、けれど深い慈愛と優雅さを思わせる独特な声。


 彼女は私の目の前まで来ると、流れるような所作で恭しく一礼した。


「……あなたは」


「ご挨拶が遅れましタ。私はエレクトリア・ヴェイル・シャロウム。……このプレアデスにおいて、いくつかの物語の編纂を任されている者でス」


 エレクトリアと名乗った彼女は、顔を上げると、その銀色の瞳で私をじっと見つめた。


 その視線には、好奇心よりも、厳格な"鑑定"に近い響きがあった。


「ノクティア・グラスベル。あなたが手に入れたその力……それが本物か、あるいは偽物の物語か。ここから先は私――エレクトリアが、直接お相手を仕りまス」


 彼女の手が、腰に下げられた細身のレイピアの柄にかかる。


 その瞬間、鍛錬場全体の空気が、物理的な重さを持って私を押し潰そうとした。


「……望むところよ。私の物語が本物かどうか、その身で確かめてみるといいわ」


 聖教国の"姫"との直接対決。


 修行は、ここから本当の意味での苛烈さを帯びていく。


 私は覚悟を決め、エレクトリアの放つ冷徹な気配を真っ向から受け止めた。


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