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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
19章「決意と裏面と災禍の足音」
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238話「再び、試練へ」


 プレアデス聖教国、第一鍛錬場。


 朝の清冽な空気が、白大理石の床に冷たく沈殿していた。高い天井から差し込む陽光は、塵一つない空間を厳かに照らし出し、中央に鎮座する"門"の歪みを不気味に際立たせている。


 私はその前に立ち、深く、長く呼吸を繰り返した。


 肺に満ちる空気は冷たく、わずかに香油の匂いが混じっている。この門を潜れば、そこには再び"あの日"が待っている。優しい母の微笑み、無邪気な妹の笑い声、そして――すべてが灰に帰る、あの温かくも恐ろしい景色が。


(……怖い。けれど、逃げるわけにはいかない)


 そんな気持ちが無いと言えば嘘になる。


 誰だって、痛いのは嫌だ。ましてや、古傷を抉られるのなんて、苦痛に違いない。


 ――それでも。


「大丈夫っすよ、お嬢様! 試練だか何だか知らないっすけど、そんなのさっさと突破しちゃうっす!」


 不意に背後から、場違いなほど明るい声が飛んできた。


 振り返れば、シャウルがいつものように無邪気な笑みを浮かべ、大きく手を振っていた。その隣には、静かに、けれど揺るぎない信頼を瞳に宿したザラ。そして、柱に寄りかかり、退屈そうに爪を眺めながらも、鋭い気配で周囲を威圧しているカノン。


 彼女たちの顔を一人ずつ見渡し、私は小さく、けれど確かな笑みを返した。


「……ええ、そうね。さっさと片付けてきちゃうわ」


 私が今から行うのは、過去への埋葬ではない。未来を掴み取るための、不可避の儀式。


 私は迷いを断ち切るように背を向け、脈動する門の中へと一歩を踏み出した。




 一瞬の意識の混濁。




 五感が剥離し、再び統合されるまでの空白の時間。


 次の瞬間、私の鼻腔を突いたのは、あの"匂い"だった。


 古い木材の匂い、微かなカビの気配、そして使い古された洗剤の香り。


 私は、こはるの自室で目を覚ました。


 懐かしい、あまりに懐かしい風景。けれど、これは魂を絡め取ろうとする茨の檻。わかってはいても、心を苛んでくる。


 私はベッドから這い出し、鏡を見ることもなく部屋を後にした。

 

 とん、とん、とん。


 木造住宅特有の、心許ない足音が階段に響く。


「あ、おねーちゃん。やっと起きてきたんだ! お寝坊さん!」


 リビングに入ると、そこには朝の光を浴びてトーストを頬張るちはるがいた。


 彼女の笑顔は眩しく、その存在の輝きは、今すぐにでも彼女を抱きしめたくなる。そうできたら、どれだけ良いことか。


「こはる、何ボーッとしてるの。早く座りなさい。冷めちゃうわよ」


 キッチンから響く母の声。


 記憶の中にある、最も優しく、最も守りたかった時間。

 

 私はあえて椅子に深く座らず、無機質に、淡々と朝食を口に運んだ。


 甘いジャムの味。味噌汁の温かさ。それらはすべて、私の神経を逆撫でする。


 ここで甘えてはいけない。このぬるま湯のような優しさに身を任せてしまえば、私は二度と"ノクティア"に戻れなくなる。


 完食を確認すると、私は勢いよく席を立った。


「ごちそうさま、お母さん。今日もおいしかったよ」


「あら、ありがとう。……もう行くの? 今日はずいぶん早いのね」


 母が怪訝そうに問いかけてくる。私は振り返らなかった。


 振り返って、彼女のあの慈愛に満ちた顔を見てしまえば、決意という名の硝子が粉々に砕けてしまいそうだったから。


「――うん、もう、行くね。お母さん、朝ごはん、ありがとう」


「なあに、いきなり改まって。昨日夜更かしでもしたの? 変な子ね」


 母の軽い笑い声が背中に刺さる。私はそれを振り切るように、玄関へと向かった。


「ううん、なんでもない。……行こ、ちはる」


「はーい!」


 ちはるが私の手を握る。小さく、柔らかい手のひら。


 私はその温もりから逃げ出したいような、けれど一生離したくないような、矛盾した感情を抱えながら、外の世界へと踏み出した。何度もなぞり、今はもう地図の上にも、私の現実にも存在しないはずの通学路。


 排気ガスの匂いが混じる冷たい冬の空気。遠くで聞こえる踏切の音。


 一歩、また一歩と歩むたびに、私は"こはる"としての時間を切り捨て、"ノクティア"としての魂を研ぎ澄ませていく。


(……これが最後。三度目の再演は、もうないわ)


 昨日の試練では、私はこの先に待つ絶望を恐れ、物語を書き換えようとした。


 けれど、それではダメなのだ。


 過去をなかったことにするのではなく、過去を糧にしなければ、あの世界の脅威たちには勝てない。


 そのために、私が乗り越えないといけないものは――。



「――ねえ、お姉ちゃん。約束、覚えてる?」



 不意に、隣を歩くちはるが私の顔を覗き込んできた。

 

 約束。 

 クリスマスパーティーの約束。


 今日、私が残業を断り、早く帰れば、ちはるは死なないかもしれない。


 けれど、その選択の先には、世界を焼き尽くす"マッチ売りの少女"が笑う、救いのない異世界が待っている。

 

 私が歩みを止め、この世界で"こはる"として生き続けることは、私を信じてくれたリゲルを、ザラを、そして今まさに鍛錬場で私を待っているシャウルを見捨てることと同義。


 もちろん、何もかもがまやかしだとはわかっている。けれど、ただの幻影だと振り払うことができない、そんな重みが、そこにはあった。


(……ごめんね、ちはる)


 私は、繋いだ手をわずかに強く握りしめた。

 

 もう、その答えは決まっていた。

 

 

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