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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
19章「決意と裏面と災禍の足音」
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236話「退屈じゃない現在(イマ)」


「……別に、お菓子をもらった程度で咎めはしないわよ。カリオペ様と何を話していたの?」


 背後に隠そうとするシャウルの慌てぶりがあまりに可笑しくて、私はつい、先ほどまでの沈んだ声音を押し隠して尋ねた。


 シャウルは、私が怒っていないと確信したのか、パッと表情を明るくして隠していた小袋を再び前に持ってきた。刺繍された絹の袋からは、冬の凍てついた空気の中でもはっきりと分かるほど、甘く芳醇な果実の香りが漂ってくる。


「はいっす! カリオペ様、美味しいお菓子があるから、お部屋まで来ないかって……。でも、あたしは夕食でお腹いっぱいだったんで、今日はお断りしたんす!」


「……部屋に?」


 私は眉を寄せた。


 最高司教が、一介の従者に過ぎないシャウルを自室に招こうとした。その意図は何だろうか。シャウルを組みしやすい相手だと見積もって、ヴァルゴ王国の内情や、私たちの旅の目的について情報を引き出そうとしたのだろうか。


 政治的な駆け引きが日常であるこの世界において、そうした邪推をするのは特使としての"正解"だ。



 けれど、先ほど影から見た、シャウルを見つめるカリオペのあの表情。


 慈愛と、どこか切なさを孕んだ母性溢れるあの眼差し。


 あれがすべて演技だとしたら、彼女の精神は私の想像を遥かに絶するほどに完成されていることになる。


「そしたら、カリオペ様、お菓子だけでも持ってけって、これをくれたんすよ! ドライフルーツの砂糖漬けっす! 高級品っすよ、お嬢様!」


「はいはい。ちゃんとお礼は言ったの? あなた、ああいう高貴な方の前では粗相をしやすいんだから」


「言ったっすよ! カリオペ様は優しいっす! プレアデスはいいところっすね〜! 食べ物も美味しいし、空気は綺麗だし、お嬢様もここで修行すれば、もっと強くなれるっすよ!」


 シャウルはご機嫌で、小袋を大事そうに抱えながら、その場で軽くステップを踏んで小躍りした。


 その屈託のない動き。跳ねるポニーテール。

 


 ――まるで、妹を相手にしているみたい。



 無意識のうちに、私の胸の奥でそんな想いが沸き上がった。


 シャウルの無邪気な笑みが、今も脳裏に焼き付いている妹――"ちはる"の面影と重なる。

 

 もし、あの日、火事が起きなかったら。


 もし、私がちはるの手を引いて、あたたかな食卓でケーキを囲んでいたら。


 彼女もまた、こんな風に美味しいお菓子一つで、世界で一番幸せそうな顔をして笑っていただろうか。


「……お嬢様? どうしたんすか、そんなにじっと見つめて。あたし、また何かマナー違反したっすか?」


 シャウルが不安そうに首を傾げた。その仕草すらも、記憶の中の幼い少女に似ていて、私は思わず視線を逸らした。


「……別に、なんでもないわ。ただ、あなたがやけに懐いているから、意外に思っただけよ」


 迷いを振り切るように、私は彼女に背を向けた。


「……? 変なお嬢様っすね。……ま、いいっす! お嬢様、おやすみなさいっす〜! 明日は試練頑張ってくださいっす!」


 シャウルは私の複雑な心境など露知らず、元気に手を振って、自室がある廊下の奥へと駆けていった。


「――ねえ、シャウル」


 遠ざかる背中に、自分でも驚くほど唐突に、私は声をかけていた。


 シャウルはピタッと足を止め、不思議そうな顔をしてこちらを振り返った。


「……どうしたんすか? 忘れ物っすか?」


「……。あなた、もし……」


 言葉が、喉の奥で一度つかえる。


 こんなことを聞いてどうなるのか。答えなど分かりきっているはずなのに。


 それでも、今の私は、何かに縋りたかったのかもしれない。


「もし、私がこの世界に来なかったら。……あなたの知っている"お嬢様"にならなかったとしたら、あなたはどうする?」


「……? どういうことっすか?」


 シャウルはきょとんとしたまま、瞬きを繰り返した。


「知っているでしょう、私は"姫"。私の魂は別世界から来たの。……本当のノクティア・グラスベルが"姫降ろしの儀"をしなくて、この身体に私が宿らない。……もし、そうなっていたら、あなたはどうしていたと思う?」


 脳裏に過るのは、今日の"試練"で見せられた、救いようのない悲劇たち。


 私がいなかったせいで命を落としたリゲルの顔。狂気のまま舞うアルゴラ。溶け落ちたグラスベルの屋敷。


 既に回避されたはずの、けれど"あったかもしれない"凄惨な現実。


 それが、私の理想には救いなどなかったのだと、不毛な自責を煽り立てる。


 ちはるとこはるは死ぬしかなくて。私たち姉妹には、たった一つの救いすらもない。だってそうしなければと、繰り返すたびに心が軋んだ。


 そんな心の弱さを、私はシャウルという、この旅で、そして私の知る限り最も真っ直ぐな少女にぶつけていた。


「う〜〜〜〜〜ん」


 シャウルは唸り声を上げ、その場にしゃがみこんで真剣に考え始めた。


 彼女は嘘を嗅ぎ分ける鼻を持っている。そして、小細工なしの本音をぶつける質だ。


 しばらくして、彼女は顔を上げ、いつも通りの、なんの飾り気もない答えを口にした。


「――わかんないっすけど。たぶん、あたしは退屈だったと思うっすよ」


「……退屈?」


 予想外の言葉に、私は呆然とした。


「はいっす。お嬢様に連れ出されなきゃ、あたしはずっとグラスベルのお屋敷で、掃除や洗濯をしてたっす。……エリダヌスやガーランド、ましてやこんなプレアデスなんて遠い国に来る機会なんて、一生なかったと思うっす」


「……それだけなの?」


「それだけっすよ? 各国の美味しいものを食べられて、こんな綺麗な景色が見られてるのは、全部お嬢様が頑張ってあちこち駆け回ってくれたおかげっす。だから……。もし、お嬢様が来なかったとしたら。あたしの人生は、もっとずっと、地味で、お腹が空いてて、退屈なものになってたと思うっす」


 シャウルは「ぽん!」と、満足そうに自分のお腹を叩いた。

 

「だから、あたしは今のお嬢様がいいっすよ。難しいことはよくわかんないっすけど、お嬢様と一緒にいる方が、絶対に楽しいっすから!」


 ……一瞬、私は呆気にとられた。

 

 あんなに深く悩み、自分を責め、存在の意義を問い直していた自分の葛藤が。


 シャウルの「退屈じゃなくて楽しい」という、あまりにも単純な一言で、あっけなく霧散していく。


「……ふふ、あははは……っ」


 私はこらえきれず、顔を绽ばせた。

 おかしくて、そして何より、温かかった。


「……ええ、そうね。それだけ、ね。本当に、あなたはそればっかり」


「なんかっすか! 事実っすよ!」


「ええ、分かっているわ。ありがとう、シャウル。……もう遅いわ、早く部屋に戻って寝なさい。食べ過ぎてお腹を壊さないようにね」


「わかってるっす! おやすみなさいっす〜!」


 今度こそ、シャウルは満足そうに廊下を曲がっていった。


 一人残された白亜の廊下。


 先ほどまでは、無機質で冷たく感じていたこの場所が、今は不思議と、穏やかな静寂に包まれているように思えた。


 ありもしない悲劇を悔いる必要なんて、どこにもなかった。


 見えもしない未来を恐れて、立ち止まる理由も。


 だって、私の"現在"はここにあるのだ。

 

 私の魂がどこから来たのか、何を引き換えにしたのか。


 そんなことよりもずっと大切なことが、今、目の前にある。


 美味しいものを食べ、笑い、明日を夢見る仲間たちが、私と一緒に生きている。


 私が歩んできた道が、彼女たちの人生を退屈から救い出した。それだけで、私がこの世界に存在する理由としては十分すぎるのではないだろうか。


(……ごめんね、ちはる。私は、もう少しだけ、ここで頑張ってみるわ)


 心の奥の小さな部屋にいる妹に、そっと語りかける。


 それは別れではない。彼女の思い出を抱えたまま、私はノクティア・グラスベルとして、胸を張って歩き出すための誓いだ。

 

 自室へと引き返す私の足取りは、先ほどよりもずっと軽くなっていた。


 視界を曇らせていた迷いの霧が晴れ、代わりに明日という物語を、私自身の指で書き記すための覚悟が宿っていた。


 明日、また"門"を潜る時。


 私はきっと、今日よりもずっと強く、硝子の剣を振るえるはずだ。

 

 このかけがえのない、"退屈じゃない日々"を、守り抜くために。


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