235話「宴の後に」
大広間での喧騒が嘘のように、割り当てられた自室は静まり返っていた。
プレアデスの夜は冷える。石造りの壁は熱を奪い、窓から差し込む月光は、まるで凍りついた刃のように床を白く照らしていた。
私は豪華な天蓋付きのベッドに腰を下ろし、自分の掌を見つめた。
明日、私は再びあの"門"を潜らなければならない。そこには、私がかつて"こはる"として過ごした、あの温かな日常が待っている。
(……明日もまた、私はあの場所に立つのね)
試練の内容が今日と同じであるならば、私は再び、焼ける家の中でちはるを助けるか、あるいは見捨てるかの選択を迫られる。
理屈では分かっている。あれは過去の残滓であり、今の私が守るべきは、この異世界で出会った人々や、ミラク、ザラ、シャウルたちの未来なのだと。
事実と同じプロットをなぞれば、私の目の前でちはるの頭蓋は砕かれ、家は灰になる。私はその絶望をエネルギーに変えて、"根源"の力を手に入れる。対帝国の戦いが刻一刻と迫る今、それ以外の道は存在しない。
けれど、あの"マッチ売りの少女"が見せた光景が、私の胸を鋭く抉る。私が間に合い、ちはるを救った世界では、この世界の人々が凄惨な死を迎えていた。
救えば世界が滅び、救わなければ最愛の妹が死ぬ。
(……どちらに進んでも、私には地獄しか残っていなかった、ってことね)
思考が泥沼に沈んでいくのを感じ、私は短く溜息を吐いた。
じっとしていられず、私は寝間着の上から厚手のローブを羽織ると、重い扉を開けて廊下へと出た。
白亜の廊下は、どこまでも潔癖だった。
足音を吸収する絨毯を避け、石の床を歩く。コツン、コツンと響く硬質な音だけが、私の存在を肯定してくれているような気がした。
歩きながら、私はこれまでの道のりを振り返っていた。
私は今まで、この頭脳に詰まった"童話"という名の知恵を武器にして戦ってきた。
人魚姫の献身、シンデレラの逆転、白雪姫の毒……。童話は単なる子供向けの物語ではない。それは、厳しい現実を生き抜くために先人たちが残した教訓の結晶であり、生存のためのバイブルだ。
敵の能力を推測し、その弱点を突き、有利な状況を作り出す。
その戦略は、この世界でも確かに通用していた。知恵こそが、か弱き私が巨悪に立ち向かうための唯一の剣だと、そう信じて疑わなかった。
(……けれど、それだけでは足りない時が、もうすぐそこまで来ている)
私の脳裏に、幾多の強敵たちの顔が浮かぶ。
カノン。百年の戦場を駆け抜けた、あの圧倒的な戦闘センスと練度。
アダーラ。慈悲を切り捨て、冷酷なまでに"氷の女王"の物語を遂行する無垢の氷像。
そして、交渉も妥協も通用しない、狂気そのものである"マッチ売りの少女"。
彼女たちのような、個としての圧倒的な強さを持つ存在と対峙した時。
私の拙い戦術や付け焼刃の魔法だけで、本当に大切なものを守り切れるのだろうか。
(この頭蓋に詰まった知恵は、あくまで盤面を整えるためのもの。……チェックメイトを仕掛けるには、私自身が最強の駒にならなくてはいけない)
一刻も早く、"根源"の力を我が物にする。
過去の悔恨を、燃え盛る業火を、そのすべてを自らの魔力の糧として喰らい尽くす覚悟が必要なのだ。
明日、ちはるの死を再び目の当たりにしても、なお立ち上がれるほどの強靭な精神が。
無意識のうちに、私は聖堂の奥深くへと足を進めていた。
すると、ふと、廊下の曲がり角の先で、微かな話し声が聞こえてきた。
(……こんな時間に、誰かしら?)
私は気配を殺し、壁の影からそっと様子を窺った。
そこにいたのは、予想外の組み合わせだった。
「――はい、それじゃあ、これはご褒美ですよ」
穏やかで、慈愛に満ちた声。
カリオペ最高司教だった。彼女は聖母のような優しい微笑みを浮かべ、一人の少女に小さな刺繍入りの小袋を差し出していた。
受け取ったのは、私の従者であり、一番のトラブルメーカー。
「わあ、カリオペ様! これ、中身はお菓子っすか? いい匂いがするっす!」
シャウルだった。彼女はまるで、大好きな祖母に甘える孫娘のように、無邪気な笑顔で小袋を抱きしめていた。
カリオペは細く白い指で、シャウルの乱れた髪を慈しむように整える。
「ええ、この国特産のドライフルーツですよ。お口に合うといいのですが。……よく食べ、よく笑う。あなたのその健やかさが、私には何よりの救いなのです」
「へへ、あたし、食べることだけは自信あるっす! ありがたく頂くっすよ、カリオペ様!」
その光景は、あまりにも朗らかで、この不気味なほど白い聖堂の中でそこだけが陽だまりのように温かかった。
カリオペから感じる母性は、この国に漂う不気味さを一瞬忘れさせるほど、本物に見えた。
(……やけに気に入られたものね。あの子のあの無邪気さが、毒気に当てられた聖教国の連中には新鮮に映るのかしら)
咎められるどころか、こうして個人的な施しを受けるほどに気に入られているのであれば、それは歓迎すべきことだろう。
カリオペは満足そうに何度か頷くと、音もなくその場を去っていった。
残されたシャウルは、手に入れた小袋を大事そうに片手で振りながら、鼻歌を歌ってスキップを始めた。そのまま自室へ戻ろうとした彼女が、ふと立ち止まり、背後の気配――つまり私の方を振り返る。
「……あ」
私の姿を認めた瞬間、シャウルの表情が凍りついた。
喜びで緩んでいた眉が、これ以上ないほど不快そうに寄せられる。
「――げ、お嬢様」
あまりに露骨な、嫌そうな声。
私は溜息を吐きながら、壁の影から姿を現した。
「……その"げ"っていうの、やめてくれないかしら。特使である主に対する態度としては、これ以上ないほど不敬よ」
私の言葉を聞いているのかいないのか、シャウルは慌てて小袋を背後に隠した。
別に、その程度で怒りはしないのに、と、思わず溜め息が漏れ出る。




