234話「眠れる"姫"」
アルトは、解放した右目から溢れ出る蒼白な魔力の奔流を感じながら、目の前に悠然と立つ怪人を凝視していた。
(……強い。デタラメだ)
アルトの脳裏に、かつて単身で死闘を演じ、辛うじて討ち果たした"姫"――"歪み、どろけた赤ずきん"の残像が過ぎる。
あの時の絶望を、彼は生涯忘れることはないだろう。だが、目の前で口髭を弄んでいる"青ひげ"から放たれる威圧感は、あの時のアンタレスを遥かに凌駕していた。
「バナビー殿。……あいつは、一体何者なのですか?」
アルトは剣を正眼に構え、一歩も引かずに問いかけた。
バナビーは鏡の大盾を低く構え、その仮面の奥にある目を片時も離さずに答える。
「……聖教国が長年続けてきた、狂気の研究の到達点。その一端です」
「狂気の研究……? それは、"姫"の力の?」
「ええ、本来、物語の力は女性という"器"にしか定着しません。しかし、奴は例外的にその力を手に入れることができた男性……。歪な実験の果てに、本来なら拒絶されるはずの物語を、自らの血肉としてモノにしているのです」
「――では、その力は正しく……」
「ええ。"姫"と遜色ないでしょう。それも、我々がエリダヌスで直面した"アリス・リデル"のアルゴラ。彼女と同等、あるいはそれ以上の出力があると見て間違いありません」
アルトの背筋に、冷たい汗が伝った。
あのアルゴラと同等。それは即ち、一国を滅ぼし得る災厄そのものが、一個人の形をして目の前に立っているということだ。
視界の端では、殴り飛ばされたギエナが瓦礫を跳ね除け、痛みに顔を歪めながらも立ち上がろうとしていた。
(……分析しろ。勝機はどこにある)
アルトは右目の異能を研ぎ澄ませ、"青ひげ"の魔力の流れを読み取る。
あのアンタレスのように万物を溶解させる熱量も、"氷の女王"のようにすべてを停止させる絶対零度もない。奴が持っているのは、純粋な身体能力と、傷を負った側から再生していく異常なまでの復元力だ。
即死するような特殊能力がないのは救いだが、それは同時に、こちらが決定打を与えない限り、永遠に続く消耗戦を強いられることを意味していた。
(……再生の余地もなく、一撃で焼き切るしかない。"アルシャイン"の出力を、"俺"の魂が焼き切れる寸前まで引き上げるんだ)
アルトが覚悟を決め、剣の柄を握る手に力を込めた、その時だった。
「――マズい。どうやら、時間切れのようですな」
バナビーの声に、隠しきれない焦燥が滲んだ。
遺棄層の淵、そして暗いトンネルの奥から、地響きのような足音が幾重にも重なって聞こえてくる。
見渡せば、彼らを囲むようにして、無数の巨大なシルエットが闇の中から這い出してきた。
汚れた包帯に身を包み、顔を、黒い前垂れで隠した、異形の男たち。
「――"禁忌衆"…っ!」
一人や二人ではない。十人、二十人……。その数は瞬く間に膨れ上がり、数十人の単位でアルトたちを完全に包囲していた。
一人一人が"姫"の力を部分的に宿した強化兵。それがこれほどの数で押し寄せれば、もはや戦術など意味をなさない。
「弱りましたな。"青ひげ"を相手取った上、この数の"禁忌衆"まで……。これは、流石に私どもの手に余る」
百戦錬磨の老騎士であるバナビーの頬を、一筋の汗が伝う。
万全の状態であればまだしも、今の彼らは"遺棄層"の惨状に精神を削られた上、"青ひげ"とも交戦している。
特に、攻撃をまともに受けてしまったアルトとギエナには、少なくないダメージが入っている。彼ら自身も、それは足から抜けていく力によって、自覚できていた。
そんな絶望的な光景を眺め、"青ひげ"が裂けたような口端を吊り上げた。
「んっ、ンンンンーッ! さあさあ、楽しい楽しいネズミ取りのお時間だァ! 諸君、希少物も多いゆえ、極力、遺体は傷付けぬように仕留めるのだぞォ……!」
"青ひげ"の芝居がかった号令と共に、禁忌衆たちが一斉に踏み出した。
地を揺らす突撃の振動。
アルトは剣を握り直し、死を覚悟した。せめて、バナビーとメロフィだけでも逃がす隙を作れるか。脳裏に諦めと、最後の一撃への執念が交錯した――その瞬間だった。
「――後退。みんな、下がってください」
喧騒を突き抜けるような、凛として涼やかな声が響いた。
アルトが驚愕して振り返れば、今までバナビーの背後に怯えるように隠れていたメロフィが、一歩、また一歩と前に歩み出ていた。
「ちょっ、メロフィさん、危ない――!」
アルトが制止しようと手を伸ばすが、彼女はそれを片手で、静かに制した。
その所作には、先ほどまでの保護されるべき子供のような弱々しさは微塵もなかった。
「――委任。ここは、私に任せてください」
そう口にしたメロフィが、深く被っていたフードをゆっくりと脱ぎ捨てる。
その瞬間だった。
彼女の小柄な身体から、大気が震えるほどの魔力が爆発的に溢れ出した。
それは今までアルトが見てきたどの魔法とも違っていた。特定の属性に染まっておらず、けれど、あらゆる物語の欠片を内包しているかのような、無垢で、鋭利な輝き。
漆黒の髪が魔力の風に舞い上がり、彼女の瞳が銀色の光を宿す。
「……なんてこった。メロフィちゃん、あんた――」
立ち上がったギエナが、戦慄と感嘆の入り混じった声で呟いた。
彼女の全身を包み込む光の奔流。
それは、世界を書き換えるための唯一無二の理。
全身に纏った魔力を自在に操り、世界の法則を気ままに書き換えていく。
彼らは、そんな存在を表す言葉を、一つしか知らない――。
「――"姫"、だったのかよ」
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