232話「"青ひげ"」
鼻を突くのは、生命が"物語"という名の劇薬によって変質し、その果てに腐敗した悍ましい死臭だ。
視界を埋め尽くすのは、かつては誰かの愛娘であり、"姫"である前に一人の人間でもあったであろう、それらの無惨な残骸。
眼帯に覆われていない自身の左目を細め、アルト・オレオーンは吐き気を堪えるように奥歯を噛み締めていた。騎士として、人間として、この光景を受け入れることは魂を削られるに等しい苦行だった。
先に沈黙を破ったのは、修羅場を潜り抜けてきた経験値が勝るギエナだった。
彼は手にしたナイフの柄を無造作に叩き、バナビーへと鋭い視線を向けた。
「――事情は、なんとなく分かりやした。この聖教国が、綺麗な二枚舌で裏表を使い分けてるってのも、嫌というほど理解できた」
ギエナの声は低い。怒りというよりは、冷淡なまでの現状分析だ。
「……で、それがどうして"国家転覆"に繋がるんです? バナビーさんよ、あんたも騎士なら分かってんだろう。他所のお国がどれほど外道な施策に走ってようと、旅の通りすがりであるはずのうちらが干渉していい道理はねえ。ノクティア様やミラク様を連れ戻すだけなら、もっと隠密に済ませる方法があるはずだ」
ギエナの問いは、合理的だった。
彼らはヴァルゴ王国の特使一行だ。他国の政治体制を物理的に破壊すれば、それは即ち国家間の宣戦布告に繋がりかねない。
バナビーは、メロフィの手をそっと離し、一歩前に出た。
「はい、それは――」
バナビーが答えようとした、その瞬間。
全員の背筋を、氷の刃で撫でられたような強烈な悪寒が駆け抜けた。
「んっ、ンー。……おやァ? ワガハイの美しき蒐集室に、珍しいお客人が迷い込んだようだァ」
静寂を裂いたのは、妙に芝居がかった、朗々たるバリトンボイスだった。
それはまるで、演劇の台本をこれ見よがしに読み上げるかのような、不自然で白々しい響き。
ギエナとアルトは、脊髄反射で剣を抜き放ち、その声の主を探して視線を走らせた。
声は、遺棄層の淵――。
――否、重なり合った死体の山の中から響いていた。
「まさか、あの中に人が……!?」
アルトが驚愕の声を上げたのと同時、少女たちの骸を突き破るようにして、一つの巨大な影が躍り出た。
現れたのは、大柄なギエナでさえ見上げるほどの巨漢だった。
死と腐敗が支配するこの場所に全く不釣り合いな、仕立ての良い漆黒の礼服。オールバックに固められた髪は一糸乱れず、左右にピンと張った口髭は、まるで喜劇役者のような滑稽さを醸し出している。
しかし、その瞳には光がない。焦点の合わない双眸は、この世の誰とも目を合わせることなく、ただ空虚な物語だけを見つめているかのようだった。
「――っ、……"青ひげ"……っ!!」
バナビーの背後に隠れていたメロフィが、喉を詰まらせるような小さな悲鳴を上げた。
バナビーは眉を寄せ、手にした鏡の大盾を低く構える。
「……できれば、見つからずに偵察を済ませたかったのですが。やはり、この死臭の主は見逃してはくれませんでしたか」
「んっ、ンー。……ワガハイが、この領地に踏み入った無礼なネズミを見逃すはずがないでしょう。……ほう? ネズミにしては、少々大きいようだ。……いち、に、さァん」
"青ひげ"と呼ばれた怪人は、指を折って数える仕草をした。
幸いにも、メロフィはバナビーの背後、そして大きな盾の影に完全に隠れている。この狂った蒐集家には、その存在はまだ見えていないようだった。
「……チッ、なんだかマズそうな雰囲気だ。ありゃあ、相当できるぜ」
ギエナが低く唸る。
相手からは、騎士のような統率された闘気ではなく、物語の残滓がドロドロに溶け出したような、悍ましいほどの気迫が立ち上っていた。
アルトは、ギエナと視線を交わした。
言葉は不要。幾多の戦場を共にしてきた彼らには、互いの呼吸だけで十分だった。
(……強そうな相手だ。だが、この面子でなら隙はない!)
――そう、アルトが思考し、地を蹴ろうとした、その刹那。
アルトの視界から、突如として"青ひげ"の姿が掻き消えた。
「っ、消え――!?」
一瞬の瞬き。それよりも早く。
アルトの鼻先には、先ほどまで遠くにいたはずの礼服の巨漢が、死神のような笑みを浮かべて肉薄していた。
「お近づきの印に、ワガハイの打撃をォ!!」
唸るような風切り音。"青ひげ"の巨大な拳が、防御の体勢すら取れていないアルトの顔面へと叩き込まれようとしていた。
(なっ、速すぎる……!)
右目の眼帯を外す隙すら与えない、音速の奇襲。
アルトが死を予感したその瞬間、彼の目の前に眩いばかりの銀色の壁が割り込んだ。
――ガギィィィィィン!!
「油断めされるな、アルト殿!」
バナビーが構えた鏡の大盾が、"青ひげ"の巨拳を真正面から受け止めていた。
鉄と鉄がぶつかり合う凄まじい火花が散り、衝撃波が遺棄層の死体を数体吹き飛ばす。
「……バナビー殿、かたじけない……!」
「礼は不要。……来ますぞ!」
アルトは、今この瞬間、己の全力を出すべき時だと悟った。
一歩下がり、自らの右目に手をかける。
「……"硝子の右目"、解放」
低く呟き、右目の眼帯を引き剥がす。
その刹那、封印されていた凄まじい魔力が右目から溢れ出し、アルトの世界の色が変わった。
相手の動きが、筋肉の収縮が、魔力の流れが、スローモーションのように視認できる。
「おおォ!? その眼……素晴らしいィ! ワガハイのコレクションに最適だァ!」
狂喜の声を上げる"青ひげ"が、盾を弾き飛ばそうと力を込める。
だが、その隙を、もう一人の狩人が見逃すはずもなかった。
「――おじさんのこと、忘れんなよ」
"青ひげ"の背後。
いつの間にか影に溶け込んでいたギエナが、地を舐めるような低空の踏み込みから飛び出した。
「このデカブツが、余計なもん欲しがりやがってよ!」
「んっ、ンー!?」
死角からの斬撃。"青ひげ"は咄嗟に身を捻ったが、ギエナの一太刀はその脇腹を確実に切り裂いた。
同時に、アルトもまた、バナビーの盾の横から弾かれたように飛び出す。
「はあああああ!!」
右目の異能によって捉えた、"青ひげ"の魔力の継ぎ目。
そこに、アルトの愛剣が稲妻のような速度で突き立てられた。
右からのアルト、左からのギエナ。
バナビーが作り出した一瞬の隙を最大限に利用した、阿吽の呼吸。
「が、がばばばッ……! 貴様らァ……ワガハイに、傷をォォ!!」
二人の剣士による連続した斬撃が、"青ひげ"の礼服を血に染め、その巨躯を強引に地面へと叩き伏せた。
ドォォン!!
凄まじい地響きを立てて、"青ひげ"は遺棄層の底に落ちていく。




