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230話「底の底にて」

◆◇◆


 空が、まるで乾きかけた血のような、どす黒い茜色に染まっていた。


 プレアデス聖教国の最下層、"男性領"。断崖絶壁にへばりつくようにして広がるこの掃き溜めから見上げる空は、高い崖のせいで酷く狭く、そして遠い。


 アルトは、裏路地の一角にある廃屋の、今にも崩れそうな窓枠に背を預けていた。


 右目に当てられた眼帯が、暮れなずむ光の中でわずかに重く感じる。視界を半分に制限されているからこそ、彼は残された左目で、この国の異質さをより敏感に捉えようとしていた。


(……空気が重い。この国の闇は、見聞きしていた以上に深いのかもしれない)


 アルトは無意識のうちに息を吐いた。


 この下層区域で見聞きした格差、そして"姫"を至上とする歪な社会構造。上層の聖域がどれほど美しい場所だったとしても、その足元がこれほどまでに腐っているという事実に、彼は言い知れぬ胸騒ぎを覚えていた。何より、ノクティアたちが今、自分たちの目の届かない場所でどのような目に遭っているのかを考えると、焦燥ばかりが募る。 


「よう、アルト小隊長。そんなに空ばっか見つめて、何か珍しい鳥でも飛んでたかい」


 背後で、床板が軋む音がした。


 振り返れば、ギエナ・アルファルドが壁に腰を下ろし、手持ち無沙汰そうにナイフを弄んでいた。五感のすべてを研ぎ澄ませた傭兵の視線が、どこか面白半分にアルトを見据えている。  


「……いえ、考えていました。今、ノクティア様たちは何をしているのかと。……あの聖域の向こうで、無事でいらっしゃればいいのですが」


「あのお嬢様なら心配ねえだろ。なんだかんだで図太いし、後ろにはあの恐ろしい"姫"サマ……カノンがついてるんだ。見た目こそあんなだが、中身は筋金入りの化け物だからな。案外、ふかふかのベッドで優雅に茶でもしばいてるんじゃねえか?」


 ギエナは冗談めかして言ったが、その声の端々には、彼なりの警戒心が滲んでいた。カノンの戦闘力は話で聞いただけだが、あの少女の姿をした"姫"こそが最大の安全保障であることは、間違いないと考えているようだった。


「……国家転覆、だっけか」


 ギエナが、眉間をなぞりながらぽつりと呟いた。


 数刻前、バナビーの口から放たれたその言葉。それは、一介の騎士や傭兵が耳にしていい、ありふれた語彙ではない。


「どう思うよ、坊っちゃんは。仮にも王国特使の警護なんて公的なお仕事やってるおじさんたちが、そんな物騒なもんに関わっていいと思うか?」


「……良いか悪いかで言えば、間違いなく悪いでしょうね。他国の内政に干渉し、体制をひっくり返そうというのですから。……外交問題どころの話ではありません」


 アルトは、騎士としての倫理観と、目の前にある現実の狭間で葛藤していた。


 彼の印象では、バナビー・フォン=アイゼンベルクは実直と誠実を旨とする男だった。彼がなぜ、自らの忠誠を汚しかねない、反逆などという言葉を口にしたのか。その真意を、未だに測りかねていた。


「――日が、暮れましたな。そろそろ、赴くとしますか」


 静寂を破ったのは、低く、重みのある老騎士の声だった。 


 部屋の入り口に、煤けたローブを纏ったバナビーが立っていた。背後に広がる黄昏の闇をそのまま背負ったかのような、圧倒的な存在感。


 そしてその影に隠れるようにして、小柄な人物が寄り添っている。昼間に紹介された、無機質な空気を纏うメロフィだ。


 バナビーは、遠くの断崖を見上げるように目を細めている。その瞳には、かつてエリダヌスで見せた温厚さは微塵もなく、ただ冷徹な決意だけが銀色に光っていた。


「おいおい、バナビーさんよ」


 ギエナが立ち上がり、バナビーを牽制するように一歩前へ出た。


「おじさんたちゃ、別にあんたに協力すると決めたわけじゃないんだぜ。国家転覆なんて、とんでもねえ話だ。そんな神罰が下りそうな大博打(ギャンブル)に、ホイホイ乗るほどお人好しじゃねえんだわ」


「……そうですか。でしたら、それでも構いませんよ」


 バナビーは感情の起伏を見せず、平然と言葉を返した。


「……ああ?」  


 ギエナが眉を寄せ、バナビーの反応に怪訝な声を出す。


「私どもは別に、この聖教国という権力が欲しいわけではございません。私もミラク様も、統治には微塵も興味が無い。誰が教典を読み、誰が法を敷くかなど、我らには関わりのないことです」


「……なら、どうして国家転覆なんて、大袈裟な真似をしようとするんです? 統治に興味がねえなら、黙ってミラク様を連れ出せばいい」


 アルトの至極真っ当な疑問に、バナビーは一度だけ首を振り、暗い路地の方へと顎を向けた。


「……必要だからです。……あなた方も、()()を見ればそう思うことでしょう」


 バナビーはそれ以上、言葉で説明するつもりはないようだった。彼は踵を返すと、迷いのない足取りで廃屋を出て、夜の静寂が降りてきた男性領の奥へと歩き出す。その後ろを、メロフィが影のように、音もなくついていく。


「ちっ、相変わらず食えねえ爺さんだぜ」


 ギエナは毒づきながらも、すぐにアルトの肩を叩いた。行こう、という合図だ。アルトも頷き、眼帯の紐を締め直すと、先行する二人の影を追って闇の中へと足を踏み入れた。


 男性領の夜は、文字通りの暗黒だった。


 バナビーは、複雑に入り組んだ路地裏を、まるですべてを把握しているかのように進んでいった。アルトは背後を警戒しながらも、バナビーのすぐ隣を歩くメロフィの様子を観察していた。


 メロフィは、バナビーの歩幅に合わせて懸命に足を動かしているが、その所作はあまりに危うく、どこか不安定に見えた。


 ギエナもまた、その"連れ"に疑念の視線を向けていた。


「なあ、バナビーさんよう。そろそろ、お供の方の紹介をしてくれてもいいんじゃねえですかい。その子は、一体何者なんです?」


 ギエナの声には、わずかな敵意と試すような響きが混じっていた。


 不意に問われたメロフィは、肩を震わせてバナビーのローブを強く握り、身を隠すように縮こまった。


 バナビーは立ち止まることなく、メロフィの頭を優しく、慈しむように一度だけ撫でた。


「……メロフィ。出身は、このプレアデス聖教国です」


「プレアデス? ……まさか、上の住人だったんですかい?」


「……いえ。ずっと、この"底"にいたのです」


 バナビーの声が、一段と冷たく、そして深い悲しみを孕んだものへと変わった。


「今から向かうのは、私とメロフィが、最初に出会った場所です。……そして、この国の"物語"が、どれほど凄惨な血で書かれているかを証明する場所でもあります」


「……出会った、場所?」


 アルトが問い返したが、バナビーはもう答えることはなかった。

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