229話「蹂躙のワルツ」
大広間の空気が、圧縮された暴力の塊となってカノンを襲った。
聖教騎士の放った巨拳。それは、ただの石壁なら粉々に粉砕し、人の肉体なら一瞬で挽肉に変えてしまうほどの質量と速度を伴っている。回避は不可能。防御も絶望的。広場に詰めかけた観衆の多くが、その無残な結末を予想して目を背けようとした――その、刹那。
カノンは、少しだけこちらを振り返った。
暴風に煽られる黒髪の隙間から、不敵な笑みが零れる。
「――いいかい、おねーさんを、よく見てな」
その言葉が耳に届くと同時に、カノンの存在が"変質"した。
(……防御する気!? "ブリキの木こり"になれば、確かに耐えられるかもしれないけど……!)
私は身を乗り出した。カノンが持つ"ドロシー"の物語において、絶対の鉄壁を誇る銀色の巨兵、木こり。あの質量と硬度をもってすれば、聖教騎士の剛腕を受け止めることは可能だろう。だが、カノンの選択は、私の予想を鮮やかに裏切った。
カノンの輪郭が、ぐにゃりと歪む。
現れたのは、銀色の金属光沢ではない。それは、月光の下で蠢く、黒く長細い不気味なシルエット。
(――"カカシ"!? なんで、ここでそれを使うの……!?)
思わず叫びそうになった。
カノンの変身バリエーションの一つ、"カカシ"。
それは思考能力とパワーを代償に、絶対的な隠密性を得る姿だ。脳が藁に置き換わっているがゆえに複雑な判断ができず、あらかじめ決めておいた単純な行動しか取れない――。そんな、この場においてはあまりにも"脆い"はずの姿。
しかし、その答えは、火花が散るほどの一瞬で開示された。
「……っ!?」
巨拳がカノンの頭部があった場所を通り抜ける。
カノンが"カカシ"になっていたのは、瞬きすら許されないほどのごく短時間だった。
長細く、棒切れのように伸びた手足。彼女はその姿になった瞬間、自らの爪先を支点にして、身体を鞭のように"しならせた"のだ。
カカシ特有の質量を持たない軽さと異常な柔軟性。それを利用し、身体を限界まで引き伸ばしたかと思うと、直後に変身を解除。元の姿に戻ろうとする筋肉の収縮力に引っ張られる形で、彼女の身体はノーモーションで数メートル後方へと跳ね飛んでいた。
("銀の靴"を使わずに……回避した……!?)
本来であれば、彼女が魔法で高速移動をするためには、靴による溜めの動作や予備動作が必要なはずだ。しかし、カノンは二つの形態を一瞬で切り替えることで、物理法則を欺く即時回避を成し遂げて見せたのだ。
年季の違い。物語の解釈の広さ。そして、魔法そのものの練度。どれが欠けても、脳が肉体に追いつかずに自壊するであろう神業。
回避に成功したカノンは、着地の衝撃を待たず、すでに次の一手へ移行していた。
彼女は姿勢を極限まで低くし、反撃に転じようとする聖教騎士の足元へ、滑り込むように肉薄する。
「……足元には、ご用心ってね」
騎士が足元のネズミを潰そうと足を上げた瞬間、カノンの全身が銀色に輝いた。
"ブリキの木こり"――。
瞬間的に発生した数百キログラムの超重量。鉄塊となった彼女に躓き、聖教騎士の巨躯が大きくバランスを崩す。大地が揺れるような轟音を立てて、銀銀の巨人が床に這いつくばった。
そこを、カノンは見逃さない。
「さあ、お寝んねの時間だよぉ!」
跳躍。今度は、金色の咆哮が広間に響き渡る。
空中で変じたのは、獰猛な爪と牙を持つ"ライオン"。
重力と落下の勢いをすべて乗せ、カノンは倒れ込んだ騎士の背中へ、魔力を纏わせた鋭い前脚を振り下ろした。
ドォォォォン!!
広間全体を揺らす衝撃波。
聖教騎士の分厚い背装甲がひしゃげ、仮面の隙間から不気味な火花と、濁った魔力の残滓が噴き出した。
もがこうとする巨人の動きが、ぴたりと止まる。
勝負あり。
カノンは優雅に宙を舞って着地すると、乱れた黒髪をかき上げ、元の少女の姿へと戻った。
「――やめ。勝者、カノン・ドロテア=エメラルダ!」
リラの、どこか興奮を孕んだ宣言が響く。
一拍の静寂の後、大広間は割れんばかりの拍手に包まれた。
「すごっ……! カノンおねーさん、めちゃくちゃかっこよかったっす!!」
シャウルが身を乗り出して目を輝かせ、最高司教カリオペもまた、満足そうに深く頷いている。一方で、初めてカノンの本気の戦闘を目の当たりにしたザラは、ただ呆然と立ち尽くし、手にしたフォークを握りしめたまま目を丸くしていた。
カノンは熱狂に沸く周囲を意にも介さず、肩をすくめながら悠然とこちらに歩いてきた。
額にわずかな汗を浮かべ、彼女は私の目の前で足を止める。
「――で、どう? なんか、わかった?」
その黒い瞳が、私を試すように覗き込む。
私は……、ただただ圧倒されていた。
彼女が見せた、複数の力を混在させ、自身の肉体を道具として使い潰すような戦い方。そのあまりの高度さに、言葉を失う。
「……ごめんなさい、カノン。あなたが、とてつもなく凄いってことくらいしか……今の私には」
「っかぁー! ノクティアの鈍感! 鈍感系主人公! それ、あたしがヒロインならフラグ折れてるからね!?」
カノンはおどけたように天を仰ぎ、わざとらしく頬を膨らませた。
そのまま、いつもの飄々とした態度で自席へと戻ろうとした彼女だったが――。
ふと、一度だけ足を止め、背後へと鋭い視線を投げた。
「……早く掴めよ、ノクティア」
低い、今まで聞いたこともないような真剣な声。
「たぶん、あんまり時間は無いぞ。……ここの連中、思ってるより"待って"はくれないみたいだしね」
カノンの視線の先。
そこには、聖教国の"姫"の一人が立っていた。
後ろで髪をきつく引っ詰めた、あの法衣姿の少女――カリオペとの謁見の際に、左右に控えていた聖女の一人だ。
彼女は、カノンの戦いを一切表情を変えずに見守っていたが、その冷徹な眼差しは、どこか獲物を品定めするような……あるいは、何かのタイミングを計っているような、異様な圧力を放っていた。
「…………」
カノンは、剥き出しの警戒心を隠そうともせず、不機嫌そうに鼻を鳴らして椅子に沈み込んだ。
ノクティアは、カノンの言葉の意味を懸命に考えた。
物語をなぞるのではなく、物語を使いこなす。
自分の"根源"という過去に囚われるのではなく、それを武器として再定義するということだろうか。
しかし、その答えを掴みかける前に、宴の主賓たるカリオペの柔らかな声が、再び会場の空気を"平穏"へと引き戻した。
賑やかな晩餐会は、不穏な余韻を優雅な音楽で塗り潰すように、夜更けまで過ぎていった。
だが、私の胸の中に灯った焦燥の火だけは、どれだけ贅沢な料理や酒を以てしても、消えることはなかった。




