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227話「余興」


 カリオペ最高司教が浮かべた、慈母のような微笑み。その余韻が私の胸の内にわずかな温もりを残していた、その時だった。


 大広間のどこからともなく、天から降り注ぐような管楽器の音色が鳴り響いた。


 それは祝祭を告げるファンファーレというよりは、儀式の開始を告げる厳かな、けれどどこか心臓を直接掴まれるような鋭い響きだった。


 視線を向ければ、先ほどまで私の隣にいたはずのリラ・マイアが、いつの間にか大広間の奥――円形に広く開けたホールの中心に立っていた。彼女の白い法衣が、高い天井から差し込む月光を反射して、この世のものとは思えないほど白く発光している。


「ミラク様、ノクティア様御一行。……この度はプレアデス聖教国にお越しいただき、誠にありがとうございます」


 リラの口から発せられたのは、普段のあの捉えどころのない、間延びした語尾の甘い声ではなかった。


 凛として、それでいて芝居がかった、腹の底まで響くような通る声。その声は、大広間のあちこち、柱の彫刻やシャンデリアの端々に止まった小夜啼鳥たちを媒介し、まるで現代のスピーカーシステムのように、死角のない音響となってホール全体に拡散されていた。


「皆様をお迎えできたこと、我ら一同、心よりの喜びを感じております。つきましては……夜の帳が下りるまでのひととき、ちょっとした余興にお付き合いくださいませ。魔法を使った、ほんの手遊(てすさ)びのようなものでございますが」


 リラが優雅に一礼する。その一挙手一投足が、完成された舞台俳優のように洗練されていた。


 しかし、その余興という言葉の軽さとは裏腹に、大広間の空気が一変した。


 重厚な扉が左右に開き、そこからゆっくりと、何かが入り込んできたのだ。


 ――ズシン、という地響きのような震動。


 最初に見えたのは、あまりにも巨大なシルエットだった。


 私はヴァルゴ王国でも、あるいは、騎士大国であるガーランドでも、数多くの巨漢を目にしてきた。特に公国の騎士団は、個人差こそあれど、全員が精強だったのを覚えている。


 けれど、目の前に現れた"それ"は、人間という枠組みを明らかに逸脱していた。


(……大きい。あの"人類到達点"よりも……まだ大きいなんて)


 全身を隙間なく覆う包帯のような白い布。その上から纏っているのは、大聖堂の荘厳さに相応しい、白銀と黄金で縁取られた豪奢なフルプレート・アーマーだ。鎧の表面には聖句が刻まれ、宝石が散りばめられているが、その美しささえも、内側に潜む"歪な肉"の威圧感を隠しきれていない。


 顔は十字の切れ込みが入った鉄の仮面で覆われ、その奥から漏れ出るのは、人間らしい意志ではなく、ただ、呪われた獣のような重苦しい吐息だけだった。


「こちら、我が国の下層区域――"男性領"にて警備の任に就いております、"聖教騎士"と呼ばれる存在です」


 リラが、その巨像を愛おしげに指し示して言った。


 アルキオネでは、その悍ましい巨躯を美しく飾り立て、神に仕える戦力として定義している。その事実に、私は胃の辺りが冷たくなるのを感じた。


「よろしければ、この聖教騎士と、ノクティア様一行のどなたかに……軽い手合わせをお願いできませんでしょうか?」


「……手合わせ、ですって?」


 私は思わず、隣のカリオペを振り返った。先ほどまで子供のようにシャウルを可愛がっていた聖母の顔は、今はただ、穏やかな観客のそれに変わっていた。


「安心なさい、ノクティア・グラスベル。これはあくまで親睦を深めるための、ほんのちょっとした組手のようなものです。生き死にを問うような、物騒なやり取りにはなりませんから」


 カリオペは事もなげに言った。


 だが、私の眼は、恐らく見抜けていた。


 あの聖教騎士が纏う魔力の圧力は異常だ。ただ立っているだけで、周囲の空気が重く澱んでいる。純粋な膂力と魔法による肉体強化の度合いなら、あの"赤ずきん"アンタレスが繰り出した狩人の斬撃にさえ匹敵するだろう。


 そんな膠着した空気を切り裂くように、勢いよく立ち上がった者がいた。


「私が行きましょう、ノクティア様!」


 椅子を蹴るような音を立てて声を上げたのは、ザラだった。


 彼女の瞳には、先ほどの訓練で抱えた鬱屈とした情熱が、火花となって散っている。


「あんな、ただ大きいだけの筋肉ダルマに、我が主が侮られては困ります。……今の私なら、あの巨体、容易く切り裂いてみせますよ」


「ちょっと、ザラ! 筋肉ダルマって、相手は一応、この国の騎士なのよ……。それに、もし万が一怪我でもして、明日からの修行に影響が出たら……」


 私はザラの腕を掴み、慎重に諫めた。


 ザラは今、新しい魔法の"種"を宿し、その力の扱いに苦慮している最中だ。あんな怪物と戦えば、制御しきれない力が暴走するか、あるいは逆に力のギャップを突かれて深手を負う可能性がある。


「……っ、それは、確かにそうですが」


 ザラが悔しそうに唇を噛む。その傍らで、シャウルが「ひいいっ」と情けない声を漏らしながら、椅子の下に潜り込むようにして小さくなっていた。


「あ、あたしは絶対嫌っすよ! あんなのと戦ったら、骨ごと叩き潰されてハンバーグにされちゃうっす! カリオペ様、あたし、ハンバーグは食べる専門っす〜!!」


「あなたには最初から戦力なんて求めてないわよ。誰がそんなこと頼むの」


 私は呆れてシャウルにツッコミを入れつつ、内心では彼女の恐怖ももっともだと思っていた。


 というか、この世界の"ハンバーグ"は一体何由来の名前なのだろうか……などと、極限の緊張感の中で場違いな思考が脳裏を掠める。


 だが、問題は深刻だった。


 リラが持ちかけた"手合わせ"を無下に断れば、プレアデスの好意を袖にすることになる。かといって、修行中の身である私やミラク、ザラが出て万が一のことがあれば、帝国との戦いに向けてのプランが根底から崩れてしまう。


(……どうすればいい? 誰か、いないかしら)


 私は思考を巡らせた。


 ノクティアたちの陣営で、現在、修行という"育成枠"に入っておらず、万全の体調を維持している者。


 あの不気味な聖教騎士の圧力を正面から受け止め、なおかつ、この場を"余興"として終わらせるほどの実力を持ち合わせている者。


 ザラは今、力の過渡期にある。


 シャウルは非戦闘員だ。


 ミラクは私以上に疲弊しているし、そもそも私の臣下というわけではない。


 私自身も、先ほどの"狂想の庭"でのダメージが魂に刻まれたままだ。


 条件はあまりにも厳しい。


 修行に参加していないフリーの立場で、なおかつ、比類なき戦力を持つ――そんな、都合のいい人材が、この場にいただろうか。


 ふと、視界の端で、誰かが退屈そうに葡萄ジュースのグラスを揺らしているのが見えた。


 周囲の喧騒も、聖教騎士の放つ殺気も、その人物にとっては昼寝を邪魔する羽虫程度の価値しかないと言わんばかりの、圧倒的な不遜さ。


 ――そうだ。


 忘れていたわけではない。あまりに規格外すぎて、選択肢から無意識に外していただけだ。


 私は、ごくりと唾を飲み込んだ。


 果たして、彼女が大人しく"余興"に付き合ってくれるかは分からない。


 けれど、もし彼女がその気になれば、あの巨大な鉄の塊など、数秒も経たずにバラバラの屑鉄に変わるだろう。


 私は、震える声を整え、その"切り札"の名前を呼ぼうと口を開きかけた。


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