226話「二つの現実」
カチャリ、と硬い床にフォークが跳ねる音が、私の耳には爆鳴のように響いた。
隣に座るミラクが怪訝そうに眉を寄せ、背後に控えるザラが「お嬢様?」と身を乗り出す。だが、私の意識はそのすべてを置き去りにして、視線の先に釘付けになっていた。
(……っ、ちょっと、嘘でしょ!?)
この潔癖なまでに美しく、静謐なプレアデスの大広間。
最高司教カリオペをはじめ、聖教国の重鎮たちが居並ぶこの公式な宴の席で、私の家族とも呼べる少女が、とんでもない暴挙に出ていた。
「もぐもぐ……んんっ、これ、すっごく美味しいっす! お肉が口の中でとろけるっすよ!」
――シャウルである。
彼女は今、自分の皿に山盛りにされた料理を、文字通り、口の中に詰め込んでいた。
リスのように頬袋をパンパンに膨らませ、口の周りにはソースやパンの食べカスをこれでもかと付着させている。フォークの使い方はもはや突き刺す道具と化しており、貴族のマナーという観点から評価すれば、マイナス一万点をつけても足りない惨状だった。
(あの子……! いくらお腹が空いているからって、場所を考えなさいな!)
グラスベル領の令嬢としての教育が、私の脳内で警鐘を乱打する。
これは単なる恥ではない。一国の王女の付き添いがこれほど無作法であるということは、ヴァルゴ王国の品格を疑われ、最悪の場合、この国との協力関係にヒビが入りかねない外交問題だ。
「ちょっと、シャウル! あなた、いい加減にしなさい――!」
私は先ほどまでの失敗による懊悩を一時的に棚上げし、シャウルを厳しく叱り飛ばそうと腰を浮かせた。
だが、私が駆け出すよりも早く、一人の人物が音もなくシャウルの背後に近づいた。
――最高司教、カリオペ・ルーツ=セレスティーア。
(――し、しまった……!)
私は血の気が引くのを感じた。プレアデスの頂点に立つ女性が、あの惨状を間近で見ることになる。
終わった。
不敬罪で叩き出されるか、あるいは野蛮な部族として軽蔑の眼差しを向けられるか。
私は最悪の事態を覚悟して身構えた。
「いいのですよ、ノクティア・グラスベル。止めなくて構いません」
凛とした、けれど羽毛のように柔らかな声が大広間に響いた。
カリオペは、シャウルの失態を咎めるどころか、その穏やかな瞳で彼女を見つめ、静かに私の制止を遮った。
「カリオペ様……。申し訳ございません、うちの者がとんだ不作法を……」
「不作法? いいえ、子供はお腹いっぱい食べるのが一番でしょう。それこそが、生命という物語における、最も正しい記述です」
カリオペはそう言って、驚くべきことに、食べカスをつけたままのシャウルの頭を優しく撫でた。
その顔は、先ほど謁見の間で見せた支配者のそれではなく、慈愛に満ちた聖母そのものだった。目尻に刻まれた皺は穏やかに波打ち、まるで自分の孫の成長を喜ぶ祖母のような、温かな空気を纏っている。
「わあ、カリオペ様、とっても優しいっす! なら、今度はあっちのローストポークが食べたいっす! あれ、すごくいい匂いがするっすよ!」
「シャウル! 流石に図々しすぎるわよ!」
私が叫ぶが、カリオペは「ふふふ」と鈴を転がすような声で笑った。
「はい、はい。いいのですよ。これですね? ちょうど残りも少なくなっていましたし、温かいものを追加で用意させましょう」
カリオペが傍らに控える給仕に目配せをすると、すぐに新しい大皿が運ばれてきた。
シャウルは「やったー!」と無邪気に喜び、再び食事に没頭し始める。
その様子を眺めながら、私は呆然としていた。
(……シャウルが、あんなに懐いている)
ストリートチルドレンとして生き抜いてきたシャウルは、相手の嘘や悪意を匂いで嗅ぎ分ける特殊な嗅覚を持っている。その彼女が、警戒心の一欠片も見せずにカリオペに甘えている。
ということは、今目の前で見せているカリオペの優しさは、少なくとも演技や打算ではない、本物の好意なのだ。
その事実が分かると、私の肩からスッと力が抜けていった。
「……ノクティア・グラスベル。そこまでかしこまらなくても、いいのですよ」
カリオペは、シャウルの皿に肉を取り分けてあげながら、ふと私の方を振り返った。
その瞳は、どこか遠くを見つめるように透き通っている。
「知っているでしょう。我らがプレアデスは、少しばかり特殊な国です。物語の純度を求めるがゆえに、こぼれ落ちてしまうものも多い……。私はこの長い生涯で、不憫な境遇に置かれた子供たちを、嫌というほど目にしてきました」
彼女の手が、慈しむようにシャウルの背中を叩く。
「ゆえに、こうして健やかに、美味しそうに食事を頬張る子供を見るのは、私にとっても非常に嬉しいことなのです。彼女の笑顔は、どんな美しい景色よりも価値がある」
「……そう、仰っていただけると……救われます」
私は、自分が抱えていた現代日本と異世界の板挟みの感情が、少しずつ形を変えていくのを感じた。
「ノクティア・グラスベル。あなたたち"姫"の魂があったという、向こうの世界のことを私は知りません。……どのような景色が広がり、どのような物語が綴られていたのかを」
カリオペは、自らも小さなカトラリーを手に取り、控えめに食事を口にした。
「他の"姫"たちの中には、あちらは子供が飢えることのない素晴らしい世界だったと言う者もいれば、精神が摩耗する掃き溜めのようだったと言う者もいました。……あなたにとって、あちらはどのような世界でしたか?」
「……どちらも、事実だと思います。生まれた場所、育った環境によって、天国にも地獄にもなる……。それは、否定できません」
「なら、私たちの世界と変わりませんね。こちらも、あちらも、痛みが伴い、喜びがある。……現実には違いないということです」
カリオペは、そう言って微笑んだ。
人を根底から安心させる、穏やかで深みのある笑み。
「私は、思うのです。そんな二つの世界――どちらが本物かという葛藤に苛まれ、板挟みになったあなたたちが。それでも、私たちのこの"現実"のために戦ってくれているのは、とても尊く、嬉しいことだと」
「……私たちの、現実……」
「ええ。……とはいえ、最後にどちらの物語を選び取るかは、あなた次第です。……迷うことも、選ぶことも、それは召喚された"姫』"だけに許された、唯一の特権なのですから」
カリオペの言葉は、私の心の奥底に沈んでいた澱を、静かに掬い取ってくれるような響きがあった。
こはるとしての未練も、ノクティアとしての責務も。
それらを無理に切り分ける必要はないのかもしれない。どちらも私という人間が経験した、紛れもない現実なのだから。
宴は、その後も穏やかに過ぎていった。
シャウルの無邪気な笑い声と、彼女を優しく見守るカリオペの姿。
プレアデスという国の、底の知れない不気味さを完全に忘れたわけではないけれど。
今、この瞬間だけは。
私は"間に合わなかった自分"への呪縛から、ほんの少しだけ解放されたような気がしていた。




