224話「目覚めと挫折」
――まどろみの淵から這い上がる時、最初に感じたのは、刺すような"白"だった。
意識が混濁している。自分が今、誰で、どこにいるのか。数秒前のことさえ霧の向こうに消えかけていた。ただ、鼻先を掠める特有の匂いが、私の脳の深層に眠る古い記憶を呼び覚ます。
(……消毒液、の匂い……?)
ツンとした、清潔さと無機質さを煮詰めたようなその香りは、異世界の宮廷や戦場には存在しないものだった。かつて通っていた高校の、誰もいない午後の保健室。あるいは、ちはるが風邪を引いた時に付き添った、あの小さな小児科の待合室。
そんな懐かしくも胸を締め付ける匂いに誘われ、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ああ! お嬢様、目が覚めてよかったっす〜!!」
視界が焦点を結ぶと同時に、涙目のシャウルが私の顔を覗き込んできた。
私は重い上体をどうにか起こしながら、目元を擦る。
そこは、壁も天井も一面が真っ白な部屋だった。家具の意匠はプレアデス特有の洗練されたものだが、窓から差し込む冬の柔らかな光が、余計にその空間を現実から浮き上がらせて見せている。おそらく、聖教国の大聖堂内に設けられた救護室か何かなのだろう。
「……シャウル。私、一体どうして。……そうだ、試練は……」
そこまで口にした瞬間、あの"狂想の庭"で見た光景が、津波のように脳内へ押し寄せた。
焼けなかった家。
私に伸ばされた、温かく小さな手。
そして――私が"間に合って"しまったせいで血に染まった、リゲルやミラクたちの変わり果てた姿。
「――ッ!」
全身に不快な脂汗が滲むのを感じ、私は自分の腕を抱きしめた。
「残念ながら、今回は失敗だな」
横合いから、ぶっきらぼうな声が飛んできた。
見れば、窓際の椅子に深く腰掛けたカノンが、退屈そうに指先で、髪を弄んでいる。
「ノクティア、あんた。……飲まれちまったんだよ。自分の"根源"にさ」
「……私の、"根源"に?」
「そ。あの庭は、そういう場所っぽいからね。無理矢理にでも隠してるトラウマや過去を引き摺り出して、無理矢理にでも"根源"に触れさせる。そうやって魔法のさらなる段階の覚醒を促すっていう、荒療治にも程があるスパルタ教育だ」
カノンは椅子を傾け、冷めた瞳で私を射抜いた。
「あたしと戦った時に出たのは、いわば火事場の馬鹿力だ。命のやり取りの中で一時的に引き出せただけで、あんた自身の制御下にはなかった。だから、いざ静かな場所で自分自身を向き合わされたら、そのあまりの重さに魂が潰されちまった……ってわけさ」
カノンの言葉に、私は返す言葉もなく目を伏せた。
失敗という事実よりも、あの幻視の生々しさが私を衰弱させていた。
もし、あの日、私がバイトを定時で切り上げていたら。
もし、私がちはるの手を離さなかったら。
こはるとしての私は、それを何よりも切望していた。そのために、ノクティアとしての責務も、共に歩んできた仲間たちとの絆も、すべてを投げ出しても構わないとさえ思った。
けれど、天秤の反対側には、私が去った後に地獄と化したあの異世界の光景が載っていたのだ。
(……いや、何を考えても仕方がない。あれは全部、過去のことなんだから)
私は心の中で、自分自身を叱咤した。
ちはるはもう死んでいる。家も燃えてしまった。今の私は、硝子の靴を履いたノクティア・グラスベルとして、目の前の危機に立ち向かわなければならない。
わかっている。そんなことは、百も承知だ。
なのに、喉の奥には今もあの夜の煙の味が残り、心臓の鼓動に合わせて"間に合わなかった"という後悔が疼き続けている。
これが、私の"根源"。
こんなものを力として、使いこなせるのだろうか――?
「……っ」
私はシーツを掴み、ベッドから這い出そうとした。だが、足に力が入らない。
感覚が麻痺したように重く、視界がぐらりと歪む。
「お嬢様! まだ、安静にしていなければ……!」
素早く駆け寄ったザラが、私の肩を支えて受け止める。彼女の鎧の冷たさが、現実の感触として肌に伝わってきた。
「……ザラ。私、急がなきゃ。こんなところで躓いてる時間なんて、ないの」
「そんなに焦らなくても、まだこの国を訪れた初日です。ミラク様も消耗されていました。少しずつ、一歩ずつ進めばよいのです」
「……"少しずつ"進んでる時間が、本当にあると思うの?」
私はザラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
これまでの旅。エリダヌスでもガーランドでも、私たちが歩みを止めようとした瞬間、必ず帝国の影が背後に迫っていた。
一刻も早く、あの門の向こう側にある力を、私自身のものにしなければならないのに。
「――無理無理。今のノクティアじゃ、あの試練は一生越えられないよぉ」
部屋の隅、開いた窓の縁から、不意にそんな声が響いた。
いつの間にか、一羽の灰色の小夜啼鳥がそこに止まっていた。
鳥は器用に小首を傾げると、次の瞬間、まるで水面に投げた小石の波紋のようにその輪郭が揺らぎ、膨れ上がった。
瞬きをする間に、鳥の姿は消え、そこには純白の法衣を纏ったリラ・マイアが悠然と立っていた。
「……リラ。越えられないって、どういうことよ」
私はザラに支えられながら、彼女を睨みつけた。
「言葉の通りだよぉ。あの"狂想の庭"は、実力だけで越えられる場所じゃないのぉ。一回でさらりと越えられる人もいれば、何千回、何万回とチャレンジしても、自分の心に食い破られて駄目な人もいるんだぁ。……今のノクティアは、残念ながら後者っぽいかなぁってぇ」
リラはヴェールの下で、楽しげに目を細めた。
「自分の過去を過去として切り捨てきれず、かといって今の自分を本物とも信じ切れていない。……そんなスカスカな魂の器じゃあ、物語の重圧に耐えられなくて当然だよねぇ」
「……些か、物言いが無礼ですな、リラ殿」
ザラが不快そうに剣の柄に手をかけたが、リラはそれを柳に風と受け流す。
「悔しいなら、次は心を殺して挑むことだねぇ。……あ、でもそうすると、今度は感情のない"人形の姫"になっちゃうかもしれないけどぉ。それはそれで、プレアデス的には無問題なんだけどねぇ」
「……っ」
言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
彼女の指摘は、あまりにも残酷で、そして的確だったからだ。
重苦しい沈黙が部屋を満たす。シャウルが私の服の裾を不安そうに握りしめ、カノンが小さく舌打ちをした。
そんな淀んだ空気を切り裂くように、リラはパンと一度、乾いた音を立てて手を打った。
「さぁ、暗い顔してても物語は進まないよぉ! 今日は最高司教カリオペ様が、遠路はるばるやってきた君たちのために、歓迎の宴を開いてくれるんだぁ」
リラは軽やかな足取りで出口へと向かい、戸口でこちらを振り返る。
「最高級の食事と、最高級の音楽。心を癒すためには必要でしょ? ……さぁ、一緒に大広間へ行こうかぁ。こんな所まで"間に合わない"必要はないからねぇ」
リラはそう残して、滑るような所作で部屋を去っていった。
私は、震える自分の手を見つめた。
この潔癖なまでに白い聖域が、今は、一刻も早く逃げ出したい底なしの沼のように感じられてならなかった。
「……行くっすよ、お嬢様。無理にとは言わないっすけど、リラ様の言う通り、ここにいても気は晴れないっす」
シャウルの励ましの声に、私は重い頷きを返した。
敗北の味を噛み締めながら、私はザラの肩を借りて、白亜の廊下へと一歩を踏み出すのだった。




