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222話「選択の代償」


 心臓が、耳元で鐘を突くような激しさで脈打っている。


 先ほどまで部屋を包んでいた温かい雰囲気、ちはるの笑い声、母の穏やかな溜息。それらすべてが、まるで色褪せた古い写真のように一瞬で精彩を欠き、灰色に染まっていく。


「――っ、お母さん、ちはる、逃げて……! 早く!!」


 私は包丁を握りしめたまま、リビングに向かって絶叫した。


 喉が張り裂けんばかりの声。けれど、その叫びは空気を震わせることさえ叶わなかった。


 時間は、残酷なまでに静止していた。

 

 リビングでは、ちはるがテレビを見て笑いかけた瞬間のまま、口を半開きにして固まっている。私を手伝おうと、キッチンカウンター越しに近付いてきた母も、エプロンの紐を結ぼうとした姿勢のまま、彫像のように動かない。


 窓の外を走っていた車のヘッドライトも、夜空を舞う粉雪も、すべてが物理的な法則を無視して空間に縫い付けられている。


 この閉ざされた静寂の中で唯一、揺らめく"火"を灯している少女がいた。


「もう一度、問います。これが、あなたの望んだ幸せ――それでいいのですね? ノクティア・グラスベル」


 "マッチ売りの少女"と呼ばれる彼女の声は、以前王都で聞いた時よりもさらに感情を削ぎ落とした、灰のような響きを湛えていた。彼女のボロボロのドレスの裾からは、絶えず黒い煤が零れ落ち、キッチンのフローリングを蝕んでいく。


「……なんなのよ、あなた。急に人んちに入ってきて……! ここから出ていって!」


 私は包丁の柄を強く握りしめ、震える足を踏ん張った。


 今の私は、ノクティア・グラスベルではない。魔法も持たず、洗練された礼装も身につけていない、ただの女子高生だ。


 彼女が指先一つ動かすだけで、私の身体など一瞬で灰燼(かいじん)に帰すだろう。その圧倒的な力の差を本能で理解していながらも、私は背後にいる家族を守るために、彼女を睨みつけ続けた。


 "マッチ売りの少女"は、その虚ろな瞳で私を……いや、私の背後にある偽りの団欒を眺め、侮蔑(ぶべつ)にも似た冷ややかな笑みを口元に浮かべた。


「……そうですか。まあ、いいでしょう。あなたの"執着"は理解しました。しかし――見ていただく必要はありますね」


「……見るって、何を?」


「あなたが選んだ道の、その結末です。あなたが"間に合い"、この世界に留まった場合……あの世界がどのような結末(エンディング)を辿るのか。それを、最後まで見届けていただきましょう」


 少女は、細い指先で一本のマッチを擦った。


 シュッ、と小気味よい音が響き、小さな火花が散る。その極小の炎は、瞬く間に空間を呑み込むほどに巨大な幕となって広がり、私の眼前に、その光景を描き出し始めた。


 炎の幕が映し出したのは、暗雲立ち込める夜のレグルス砦だった。


 私が最初の一歩を踏み出し、帝国軍を退けたはずのあの場所。


 けれど、そこに私の姿はない。


 轟音と共に、砦の強固な城壁が飴細工のようにドロドロと融解していく。


 私はそれに見覚えがあった――"赤ずきん"、アンタレスの魔法だ。逃げ惑うグラスベル領の兵士たちは、悲鳴を上げる暇もなく輪郭を失い、黒い泥となって地面に張り付いていく。


 その地獄絵図の中を、赤い頭巾を被った少女が鼻歌を歌いながら悠然と歩いていた。


「あはは、綺麗。全部、ぜぇんぶ溶けちまえ!」


 アンタレスの加虐的な笑みが、夜空に響く。彼女はそのまま、守り手を失った城塞都市シルマへと突き進み、その先にあるグラスベル邸を、文字通り地図から消し飛ばした。


 グラスベル伯、年若い使用人、庭師の老人、そして、灰色の髪を持つ、穏やかな侍女――その誰一人として生き残る術を持たなかった。


 場面は激しく切り替わる。


 次に映し出されたのは、エリダヌス連邦の首都、フォーマルハウト。


 美しい運河に彩られていたはずの水の都は、今はどす黒い血に染まっていた。


 "大星潮首脳会談"が行われていた議場。その中央に、壊れた操り人形のように佇む少女がいた。


「……お茶会、おわりぃ。つまんないのおおお」


 "目覚めなかったアリス・リデル"――アルゴラ。


 彼女の足元には、無残に引き裂かれたミラクの亡骸と、彼女を最後まで守ろうとしたバナビーの無残な骸が転がっていた。


 あの時も、私とミラクが力を合わせなければ、"狂気"の深淵に呑まれたアルゴラを止めることはできなかった。


 私が、いなかったから。

 自分の幸せを、優先したから。


「あ、ああ……っ……」


 私は自分の喉を掻きむしった。

 見たくない。こんなもの、見たくない。


 炎は容赦なく、次の絶望を映し出す。


 一際激しく雪が降りしきる、ガーランド大公国の首都、アークトゥルス。


 その最奥に位置する黒薔薇宮――執務室の扉が、氷の彫刻のように砕け散る。


「……ここ、まで……か」


 声の主は、"人類到達点"と呼ばれた最強の騎士、ヴェルギウスだった。


 けれど、その不屈の巨躯は、既に限界を超えていた。全身を氷の結晶に侵食され、彼が握る剣さえもが凍りつき、その輝きを失っている。


 彼の正面には、冷酷な笑みを浮かべたアダーラ。そしてその背後で、完全に感情を失い、自らの意志を持たない氷の彫像へと成り果てたリゲルがいた。


 私がいない世界では、リゲルは覚醒せず、アダーラの手によって、凍死することになっていたのだろう。


 ヴェルギウスは、複数の"姫"との連戦の末、最後に現れた彼女と差し違えるようにしてその命を散らしたのだ。


 氷像となって崩れ落ちるヴェルギウスの破片が、虚しく床に響く。


 希望の象徴であった、人類最強の男が、この世界から、最も惨めな形で消え去った。


「…………ああ、あああああああああああああああああ!!!」


 私は膝をつき、両手で顔を覆った。

 指の間から涙が溢れ、床を濡らす。

 

 救ったはずの人々。

 共に歩んだ仲間たち。

 乗り越えたはずの、幾多の苦難。


 そのすべてが、私がこの"こはる"として幸福に生きる代償として、最悪の結末へと塗り替えられていた。


 私がこの世界でちはると笑い合うためには、あの世界の何万人もの人々が、凄惨な死を迎えなければならない。


 私が間に合わなければ、リゲルは氷像と化し、ミラクは無念の中で果てる。

 

 運命という名の天秤は、あまりにも残酷だった。


「……気づきましたか。あなたの存在が、いかに歪なものであるかを」


 "マッチ売りの少女"の声が、耳元で囁く。

 

「あなたは、いくつもの悲劇を書き換えた特異点……故に、あなたが平穏を選べば、世界という名の書物は、そのすべてのページを火に焚べられることになります」


「……そんなの……そんなの、残酷じゃない……! どうして、私なのよ!? 私はただ、ちはるを助けたいだけなのに!!」


 叫ぶ私の全身を、不意に、青白い炎が包み込んだ。


 それは熱さを持たず、ただ、私の存在そのものを現実へと引き戻そうとする"物語"の意志だった。


 リビングのちはるが、ゆっくりと動き出す。


 彼女は笑顔で、こちらに向かって手を伸ばそうとしている。


 けれど、その輪郭は炎に焼かれ、陽炎のように揺らめいて消えていく。


「お姉、ちゃん……?」


 ちはるの、最後のか細い声が聞こえた気がした。

 

 私は手を伸ばそうとしたが、身体は既に"門"の向こう側へと弾き飛ばされ始めていた。


 視界が真っ白に染まる。


 温かなシチューの匂いも、妹の体温も、すべてが物語の残滓となって、霧の向こうへと消えていった。


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