221話「幸せを選んで」
十九時。店の壁に掛けられた安っぽい時計の針が、重なり合ったその瞬間。
私は、店長の「お願い、あと三十分でいいから……!」という泣き言を背中で切り捨て、居酒屋の裏口を飛び出した。
冷たい夜気が、火照った頬を叩く。
呼吸を整える間も惜しく、私は駅へと続く道を走り出した。スニーカーがアスファルトを叩く音が、静かな住宅街に響く。
(間に合う。今なら、まだ――)
逸る気持ちを抑えきれず、歩幅が自然と広がる。
ノクティア・グラスベルとしての洗練された身のこなしは、この"こはる"の身体では完全には再現できない。それでも、戦場を駆け抜けてきた精神は、最短のルートと効率的な足運びを無意識に選び取っていた。
駅へと向かう途中の商店街。
華やかなイルミネーションが街を飾り、楽しげなクリスマスソングが流れる中、私は一軒の洋菓子店の前で足を止めた。
ショーケースの上には、『当日分、残りわずか!』という手書きのポップと共に、色鮮やかなイチゴが乗ったホールケーキが並んでいる。
かつての私は、ここを素通りした。
一分でも一秒でも長く働いて、一円でも多く稼がなければならない。そう自分を追い込んでいたあの日の私は、家で待つ妹のために、帰りのコンビニで小さなカップスイーツをいくつか買うだけで済ませようとしていたのだ。
「……ください。これ、一つ」
私は迷わず、財布から数枚の千円札を取り出した。
今の私には、グラスベル伯の金庫を動かす権限も、金貨の入った革袋もない。けれど、この数千円の重みこそが、当時の私の"すべて"だった。
丁寧にリボンがかけられた箱を受け取り、私は再び走り出す。
手に伝わる箱の重み。それは、あの日果たせなかった約束の重みそのものだった。
住宅街の角を曲がる。
視線の先にあるのは、私が育った、古くて小さな二階建ての借家だ。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。
あの日、私が角を曲がった時に見たのは、夜空を赤く染める凶々しい炎だった。黒煙がうねり、隣近所の怒号とサイレンの音が響き渡り、私の"日常"が物理的に崩壊していく光景だった。
けれど、今、目の前にあるのは――。
「…………ああ」
漏れたのは、祈りのような吐息だった。
家は、燃えていなかった。
二階の窓には、暖かな明かりが灯り、一階の玄関先には、ちはるが学校で作ったのであろう小さなリースの飾りが、冬の風に静かに揺れている。
私は震える手で鍵を取り出し、ドアを開けた。
「ただいま……!」
言い終えるよりも早く、奥の廊下からタタタッと軽い足音が聞こえてきた。
「あ、お姉ちゃん! お帰りなさーい!」
リビングから飛び出してきたちはるが、私の腰に勢いよくしがみついてきた。
腕の中に伝わる、柔らかな子どもの体温。石鹸の匂い。
幻覚ではない、確かな"生"の感触に、私は思わず彼女を強く抱きしめ返した。
「ちはる……。ふふ、ただいま。いい子にしてた?」
「うん! お姉ちゃん、帰ってくるの早いね! お姉ちゃんが帰ってこなかったら、お母さんが帰ってくる前に、ちはるがご飯作ろうと思ってたんだよ!」
「こーら。コンロには近づいちゃダメって、いつも言ってるでしょ。危ないんだから」
叱りながらも、私は目尻が熱くなるのを堪えきれなかった。
コンロ。火事。
あの日、私を絶望の底に突き落とした原因が、今はまだ、ただの微笑ましい会話の種としてそこにある。
「見て、ケーキ買ってきたの。お母さんが帰ってきたら、一緒に食べよ」
「わあああ! 本当!? ホールのケーキ!? すごい、お姉ちゃん大好き!」
ちはるが飛び上がって喜んでいると、玄関のドアが再び開いた。
冷気を連れて入ってきたのは、パート帰りの母だった。
「ただいま……。あら、こはるの方が早かったのね。お仕事、大丈夫だったの?」
「お母さん、お帰りなさい。うん、今日は絶対早く帰るって決めてたから」
「そうなの? ふふ……。それじゃあ、急いでクリスマスのご飯、作りましょうか」
「お母さんは座ってて。今日は私が作るから。ちはるも、もう少しだけ待っててね」
私はコートを脱ぎ捨て、キッチンへと向かった。
使い込まれたフライパン、少し切れ味の悪い包丁、シンクに置かれた食器。
すべてが愛おしい。
ここにあるのは、あの日、永遠に失われたと思っていた団欒だった。
硝子の魔法も、王国の責務も、帝国の脅威も、ここには何一つ存在しない。
私はただの"こはる"として、家族のために夕飯を作る。それだけのことが、これほどまでに救いに満ちているなんて。
(……わかってる。ここは夢の世界。プレアデスの試練が見せている幻影に過ぎない)
野菜を刻む包丁の音が、トントントンとリズムよく響く。
ザラやアルト、シャウル、そしてカノン。
彼らが待つあの現実を捨て、この偽りの平穏に安住することが、どれほど危険なことかも理解している。
けれど、それでも。
せめて今夜だけは。この"間に合った"世界に、身を浸していたい。
ちはるが元気に笑い、母が安らかに眠る、このありふれた奇跡の中に。
そう。ノクティアが、ほんの一瞬だけ、心の守りを緩めた瞬間だった。
「――そう、あなたはそれで、いいのですね?」
背後から響いたのは、この世のものとは思えないほど、冷え切った声だった。
「…………えっ?」
包丁を握る手が止まる。
リビングにいるはずのちはるや母の声ではない。
それは、すべてを焼き尽くし、最後には自らをも灰に変えてしまった絶望の果てから届くような、虚無の響き。
私は、恐る恐る振り返った。
キッチンの入り口。暖かなオレンジ色の光が届かない、薄暗い廊下の隅に、その少女は立っていた。
ボロボロに引き裂かれた、灰色のドレス。
裸足の足元には、何かが焦げたような煤がこびりついている。
その手には、一本の、小さくも不気味に揺らめくマッチの火。
かつて、世界を焼き払おうとし、そして今も、世界の裏で暗躍する、最悪の"姫"。
私の不倶戴天の宿敵であり、物語の犠牲者。
「…………"マッチ売りの……少女"!?」
喉が、引き攣れるようになりながら、私は彼女の名を呼んだ。
少女は、感情の消え失せた瞳で私を見つめ、静かに一歩、こちらへ踏み出した。
「偽りの暖かさに縋り、間に合わなかった結末を書き換える。……それが、あなたの望んだ"幸せ"なのですか? ……ノクティア・グラスベル」
彼女の足跡が、キッチンの床にどす黒い焦げ跡を残していく。
さっきまで漂っていたシチューの甘い香りが――急速に、焦げ付いた肉と火薬の匂いへと塗り替えられていった。




