220話「分岐点」
使い古されたスニーカーがアスファルトを蹴る音。遠くで響く踏切の警報音。そして、私の少し前を、赤いマフラーをなびかせて弾むように歩く小さな背中。
「おねーちゃん、早く早く! 遅刻しちゃうよ!」
振り返ったちはるの頬は、寒さのせいか、あるいは高揚のせいか、林檎のように赤く染まっていた。
私は、その光景を夢見心地で眺めていた。つい数日前まで……いや、あの"門"を潜る直前まで、私の周りにあったのは冷徹な白亜の石造りの部屋と、その中に佇む、銀のレイピアを腰に下げた騎士たちだったはずだ。
それなのに、今私の手にあるのは、参考書とバイトのシフト表が詰め込まれた、ずっしりと重い通学カバンだけ。
(――なんだか、気持ちがふわふわする)
ノクティア・グラスベルとして過ごした日々。戦場の泥と血、政争の緊迫感、そして魔法という超常の力。それらがすべて、昨夜見た長すぎる夢だったのではないかという錯覚に陥りそうになる。それほどまでに、日本の冬の朝は、残酷なまでにリアルな手触りを持っていた。
「……ねえ、お姉ちゃん。約束、覚えてる?」
不意に、ちはるが立ち止まって私の顔を覗き込んできた。
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、私の胸がドクンと大きく跳ねた。
約束。
そんなもの、忘れるはずがない。私の人生を、物語を、あの日から決定的に変えてしまった、呪いのような言葉。
「……うん、もちろん。覚えてるよ。クリスマスパーティー、でしょ?」
「よかった! ちはる、サンタさんにお願いするお手紙、もう書いたんだよ。お姉ちゃんが帰ってきたら、一緒にケーキ食べて、それから見せてあげるんだから。……だから、今日はぜーったい、早く帰ってきてね!」
「絶対だよ!」と念を押すように指を立てて笑うちはる。
かつての私は、この無垢な笑顔に「わかった」と答えた。そして、その約束を破った。
喉の奥が引き攣れるような感覚を覚えながら、私は無理やり笑みを浮かべて頷いた。
「……ええ。約束するわ。今日は、絶対に遅くならない」
通学路の分かれ道。小学校の門へと駆けていくちはるの背中が見えなくなるまで、私はずっと立ち尽くしていた。その小さく温かな温もりが、今もこの手のひらに残っているような気がして、私は自分の手を強く握りしめた。
高校の校門を潜り、教室に入り、授業を受ける。
そのすべてが、ノクティアという人格を持った今の私には、ひどく新鮮で、かつ奇妙な居心地の悪さを伴っていた。
黒板に書かれる数学の公式。かつての私はそれを、自分の将来を切り拓くための必要な知識として必死に吸収していた。けれど今の私には、それが国々を巡る政争よりも回りくどく、ひどく無機質な記号の羅列に見えた。
昼休みに聞こえてくるクラスメイトたちの会話。推しのアイドルの話、テストの点数、進路の悩み。それらは平穏そのものでありながら、死線を潜り抜けてきた私の耳には、どこか遠い異界の言語のように響く。
(――自分が、自分じゃないみたい)
あくまでも、異世界での私は"ノクティア・グラスベル"という少女の肉体を借り、その運命を下敷きにして生きてきた。けれど今、この日本で"こはる"として過ごしていると、逆にノクティアとしての日々が、自分という本質を"上書き"してしまったかのような違和感に襲われる。
私の本質は、バイトに明け暮れる苦学生のこはるなのか。
それとも、硝子の魔法を操り、国の命運を背負う王女ノクティアなのか。
ノートの端に、無意識のうちに術式の紋様を書き殴り、慌てて消しゴムで消す。
机に突っ伏して目を閉じれば、カノンの皮肉げな笑い声や、ザラの生真面目な声が聞こえてくるような気がした。
「……これが、"狂想"の正体なのね」
リラが言っていた。自分と"物語"の親和性を高めるのだと。
過去を追体験し、その痛みを受け入れることで、己の根源を確定させる。それがこの試練の意味ならば、この日常を享受することは、私という存在を再び"こはる"へと縛り付ける枷になるのではないか。
そんな恐怖が、胸の奥で黒い染みのように広がっていった。
放課後。冬の日は短く、学校を出る頃には街はオレンジ色の夕闇に包まれていた。
街路樹には、気が早いイルミネーションが点灯し始めている。幸せそうに肩を寄せ合うカップルや、おもちゃ屋の袋を提げた親子の姿が目につく。
今日はクリスマス・イブ。街全体が、一年で最も華やかな高揚感に包まれる日。
そして、あの日――私がすべてを失った日。
私は重い足取りで、都心の外れにあるバイト先の居酒屋へと向かった。
学生やサラリーマンが多く利用する、古びたビルの二階にあるその店。裏口の錆びたドアを開け、使い古されたエプロンを手に取った瞬間、キッチンの奥から聞き覚えのある、へらへらとした声が飛んできた。
「おっ、こはるちゃん! 早いね、助かるよ!」
カウンターの中で、少し油ぎった顔に愛想笑いを浮かべた初老の男性――店長が、手を振っていた。
その姿を見た瞬間、私の心臓が冷たく収縮した。
この店長。悪人ではないけれど、どこまでも事なかれ主義で、自分の責任を他人に押し付けるのが上手い、あの男。
「……おはようございます、店長。今日のシフト、確認に来ました」
「うん、もちろん大丈夫! いやあ、今日は最悪だよ。上の子たちがクリスマスだからってごそっと辞めちゃってさあ。予約はパンパンなのに、ホールもキッチンも人手が足りなくて……」
――知っている。
確かめるまでもなく、私はこの後の展開を知っている。
経験の浅いバイトの子たちがパニックになり、オーダーが滞り、客が怒り出し、店長が泣きつく。
「こはるちゃん、君しかいないんだ。時給上げるから、お願い、一時間だけでいいから残ってくれないか」と。
そして、当時の私は、クリスマスをほんの少しだけ豪華にしたくて、そのわずかな小銭のために、ちはるとの約束を反故にして、残業を承諾してしまったのだ。
私が店に残っている間に、家は炎に包まれ、私は――間に合わなかった。
「……店長、いいですか」
私は更衣室に向かいながら、店長の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
その声には、ノクティア・グラスベルとして多くの騎士を従えてきた時のような、有無を言わせぬ威圧感が混じっていた。
「私、今日だけは、絶対に残りませんから。十九時になったら、何があっても帰ります。ちはると、約束しているんです」
「えっ……え、あ、ああ、もちろん。わかってるよ、そんなに怖い顔しないでよ」
店長が気圧されたように後ずさりする。
更衣室に入り、ロッカーにカバンを叩きつけるように置いた。
鏡に映る自分の顔を見る。……そうだ。これは"狂想"の中だ。
私がどう動こうと、これは過去の再現に過ぎないのかもしれない。
けれど、もし。
もし、今ここで私が残業を断り、十九時に店を出れば。
ちはるとの約束に間に合い、火が出る前に家に帰り、未然にあの惨劇を防ぐことができたら。
(――私は、どうなるの?)
火事が起きなければ、ちはるは死なない。
ちはるが死ななければ、私も死なない。
私が死ななければ、グラスベル領の生贄として召喚されることも、ノクティアになることもない。
この"こはる"としての人生が、そのまま続いていくのだろうか。
異世界での戦いも、仲間たちも、すべてが"なかったこと"になる。
それは、私の魂が求めていた救済ではないのか。
ザラの顔が浮かぶ。アルトの眼差しが、シャウルの笑い声が、カノンの毒舌が、頭の中で渦巻く。
それらをすべて捨ててでも、私はちはるの命を、この平穏な、けれど貧しい日常をやり直したいのか。
「――でも、確かめずにはいられるわけないじゃない……!」
拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みを感じる。
この世界が"庭"の見せる幻影だとしても、その可能性を無視することはできなかった。
一度は間に合わなかった私が、今度こそ、最愛の妹の手を離さないために。
私は、運命の時計の針を無理やり書き換えるべく、賑わい始めた店内の喧騒へと足を踏み出した。




