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219話「追想の中で」


 ――チッチッチッ、と規則正しく刻まれる時計の針の音。


 ――遠くで聞こえる、登校中の子供たちの甲高い笑い声。


 ――そして。



「……こはる、こはる! いい加減に起きなさい、朝ごはん冷めちゃうわよ!」



 遠くで聞こえるその声に、私は弾かれたように目を開けた。


 視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。


 少し黄ばんだ白い壁紙。四隅をセロハンテープで留めた、剥がしかけの好きなアイドルのポスター。そして、天井から吊り下げられた、少し埃の被った円形のシーリングライト。


 それは、グラスベル領の豪華な天蓋付きベッドでも、王都の宿の清潔な天井でもなかった。


「…………嘘、でしょ?」


 喉から漏れた声は、凛としたノクティアのものではなく、まだ幼さの残る、聞き慣れた自分の声だった。


 私は震える手で、枕元に立てかけられた古い姿見を覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、モデルのように長い手足でも、神秘的な輝きを放つシルバーブロンドの髪でも、夜の海を溶かしたような深い青の瞳でもない。


 どこにでもいる、少しだけ疲れの隈が目立つ、黒髪の女子高生。


 あのクリスマスの夜、燃え盛る家の中で妹を救えず、自らも命を落としたはずの現実世界の私――"こはる"が、そこにいた。


「なんで……? 私、戻って……!?」


 鏡の中の自分と目が合う。ノクティアとしての記憶ははっきりしているのに、この身体には魔力の欠片も感じられない。指先に意識を集中させても、硝子の破片一つ生み出すことはできなかった。


「こはるー! 聞いてるの!? 今日、日直だって言ってたでしょ!」


 再び階下から響く母の声。


 それは、私の記憶の底で何度も再生され、そのたびに喪失感で胸を締め付けてきた、懐かしくも愛おしい声だった。


 私は突き動かされるようにベッドから這い出し、扉を開けて階段を駆け降りた。


 一歩、また一歩と降りるたびに、鼻を突く匂いが変わっていく。


 冷たい石の匂いでも、馬車の埃の匂いでもない。


 炊きたての米の匂い、味噌汁の出汁の香り、そしてトースターで焼かれた食パンの香ばしい匂い。


 リビングの扉を開けると、そこには"あの日"に焼け落ちてしまったはずの、ありふれた風景が広がっていた。


「あ、おねーちゃん。やっと起きてきたんだ! お寝坊さん!」


 ダイニングテーブルの椅子に座り、ジャムを塗った食パンを頬張っていた少女が、私を見て屈託のない笑顔を向けた。


「…………ちはる」


 喉の奥が熱くなり、視界が急激に滲む。


 そこにいたのは、燃え落ちる家の中で、瓦礫に頭蓋を潰されたはずの妹だった。私の目の前で命を落としたはずの、大好きな妹。


 今はその小さな手で牛乳を握り、幸せそうに笑っている。


「こはる、何ぼーっとしてるの。早く座りなさい」


 キッチンから、エプロン姿の母が顔を出した。


 久しぶりに目にする母の姿は、記憶の中のままだった。私は震える手でフォークを持ち、朝食を摂り始める。


(これは、何なの? 私、本当に元の世界に帰ってきたの……?)


 混乱が思考を支配しようとする。けれど、このトーストの食感も、ちはるが立てる咀嚼音も、あまりに現実感がありすぎて、これが偽物だとは到底思えなかった。


「……ねえ、こはる」


 私の様子を窺っていた母が、少しだけ心配そうに語りかけてきた。


「やっぱり、アルバイト詰めすぎなんじゃない? お母さんも、もう少し頑張るから、バイト減らしても……。最近、あんまり眠れてないみたいだし」


 自分を気遣う母の言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


 そうだ、現実世界にいた頃の私は、少しでも家計を助けるため、そして将来の学費とちはるの習い事のために、毎日のようにバイトに明け暮れていたのだ。


 私は、こはるとしての記憶をなぞるように、懐かしさとともに口を開いた。


「うん、大丈夫だよ。今日はちょっと疲れてただけ。勉強も順調だし、入学金も順調に溜まってきたし……」


「……本当に? でも、その後の学費だってあるんだし」


「そこは、奨学金も借りるよ。それに――」


 こはるはそこで、妹のちはるに目をやった。


 小学校に上がったばかりの彼女は、私がバイト代で買ってあげたヘアピンを誇らしげにつけて、幸せそうに朝食を頬張っている。


「……ちはるが大きくなった時、困らせたくないから。私なら平気だよ」


 そうだ、私は妹のためにも、少しでも多く稼ごうとしていた。


 その献身が、私という人間の"根源"の一つだった。


 朝食を終え、学校に行く準備を整える。ノクティアとしての重いドレスも、銀のレイピアもここにはない。あるのは使い古された通学カバンだけ。


「おねーちゃん、早く行こ! 置いてっちゃうよー!」


 ちはるが私の手を引き、玄関へと向かう。


 その手の小ささと温もりが、私の胸に鋭い痛みをもたらした。


(もし、これが本当に"狂想"なのだとしたら……)


 私は、ちはるの手を強く、強く握りしめた。


 このまま、あの"火災"が起きる瞬間まで、私はこの幸せな日常をもう一度なぞらなければならないのだろうか。


「いってらっしゃい。車に気をつけるのよ」


 母の見送る声に背中を押され、私はちはるとともに家を出る。


 冷たい冬の空気が、頬を刺した。


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