218話「反逆せり」
石造りの迷宮のような裏路地。湿った風が吹き抜け、腐敗した物語の死臭が鼻を突く。
先導するバナビーの背中は、煤けたローブの汚れも相まって、この"男性領"の風景に完全に同化していた。かつてエリダヌスで見せた、あの洗練された老紳士の面影はもはや微塵もない。
その歩みに、ギエナが鋭い制止の言葉を投げかけた。
「……ちょっと待ちな。バナビー殿」
ギエナは足を止め、険しい眼光で老騎士の背中を射抜いた。
「あんた、なんでそんなにこの国の事情に詳しいんですかい? 禁忌衆の成り立ちだの、上層で行われてる実験だの……。数日前にプレアデスに来たばかりの余所者が知るには、ちいとばかり首を突っ込みすぎちゃあいねえか?」
アルトもまた、無言で頷いた。
バナビーの語る"真実"は、あまりに具体的で、あまりに根深い。ただの聞き込みで得られるような浅い情報ではない。
問いかけられたバナビーは、歩みを止めた。けれど、振り返ることはしない。
静寂が路地裏を支配する。どこか遠くで、禁忌衆が引きずる重い鎖の音が響いた。
「……そうですな。その答えは――遠からず、わかるでしょう」
含みのある、乾いた声だった。
バナビーはそれ以上語ることを拒むように、再び歩き出す。
ギエナとアルトは顔を見合わせた。不信感はある。けれど、今はこの老紳士が握る情報の糸を辿る他に道はない。
(――万が一、バナビーが俺たちと敵対した場合、どうする……?)
ギエナは思考する。相手は"姫"ではない、ただの人間だ。しかし、恐らくはミラクから魔法を授かっているであろうということも、予想はついていた。
だが、それはこちらも同じ。二対一なら、"鉄壁"相手でもそこまで分は悪くないはずだ。
(問題は、こいつが"何"と通じてるかだ。それはこれから、確かめねえとな――)
彼がそう考えているうち、やがて一行は裏路地の一角に建つ、一際古い廃屋の前に辿り着いた。
窓は割れ、壁には不気味な蔦が這い、周囲からは完全に忘れ去られたような、正しく"死んだ家"だ。バナビーは躊躇なくその扉を押し開き、暗がりの奥へと足を踏み入れていく。
「……行きましょう、ギエナ殿。ノクティア様を救うヒントが、ここにあるはずです」
アルトが意を決して言い、二人は暗い廃屋の中へと後に続いた。
廃屋の中は、想像を絶するほどに荒れ果てていた。
床板は腐り、家具の残骸が散乱している。明かりの一つもなく、唯一の光源は天井の穴から差し込む細い陽光だけだ。その光の柱の中に、埃がゆっくりと舞い、時間を止めたような錯覚を抱かせる。
部屋の最奥。
影が濃く落ちた場所で、一人の小柄な人影が蹲っていた。
バナビーと同じように、全身を覆う深いローブを被った人物。
バナビーが近づく足音に気づくと、その人影はゆっくりと顔を上げた。
「やあ、メロフィ。今戻りましたよ。……変わりはありませんか?」
バナビーの声が、先ほどまでの冷徹な響きを捨て、優しい慈愛の色を帯びた。
メロフィと呼ばれたその人物は、フードを浅く降ろした。
そこに現れたのは、男性とも女性とも判然としない、中性的な容貌をした十代半ばほどの少年だった。透き通るような白い肌。けれど、その瞳には感情の揺らぎが一切なく、まるで精密に作られた人形のような無機質さが宿っている。
「首肯。バナビー様が出発されてから、特段報告に足る事項は何も。……監視の目も、この区画までは届いていません」
メロフィの声は、抑揚を完全に排除した機械的なものだった。
言葉を"話す"というよりも、予め決められた台本を、意味もわからず読み上げているかのような不気味さ。
「そうですか。それはよかった。……では、少し、客人の紹介をさせていただいてもよろしいですかな?」
バナビーが丁寧に断りを入れると、メロフィは感情の失せた瞳を、ギエナとアルトの方へと向けた。
「こちら、ヴァルゴ王国のギエナ殿。そしてアルト殿だ。……お二人とも信用のおける、強靭な騎士様ですよ」
その紹介を聞いた瞬間、メロフィの瞳が、初めて微かに見開かれた。
それは驚きというよりも、パズルに欠けていた最後のピースが嵌まったかのような、冷徹な確認の眼差しだった。
「……ヴァルゴの騎士。……では、バナビー様。これで」
「ええ。……"駒"は、すべて整ったということですな」
整った、というバナビーの言葉に、アルトは思わず身を乗り出した。
「バナビー殿、先ほどから仰っていることが分かりません。駒とは? 協力者とは? ……我々はノクティア様のため、この国に後ろ暗いことがあるのなら、それを知りたいだけなのです。この少年の正体も含め、説明していただきたい」
アルトの切実な問いかけに、バナビーは静かに振り返った。
廃屋の暗がりのせいで、彼の表情は半分だけが照らされ、残りの半分は闇に沈んでいる。
「なあに。アルト殿、そんなに身構える必要はありませんよ。我々が今から行うのは、極めて単純な……人助けの延長線上の出来事です」
バナビーはそこで、かつての"鉄壁"と呼ばれた頃の凄まじい威圧感を、隠すことなく解き放った。
その口角が、皮肉めいた、けれど確かな殺意を孕んだ笑みの形に歪む。
「――ただの、国家転覆でございます」
その言葉が落ちた瞬間、廃屋の中の空気が凍りついた。
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