217話「教国の影」
酒場の扉が軋んだ音を立てた瞬間、それまで店内に満ちていた粗野な喧騒が、潮が引くように消え失せた。
入り口に現れた人影は、一言で表すなら"歪な肉の塊"だった。
見上げるほどの長身に、岩を削り出したかのような筋骨隆々の四肢。その全身には、血と油に汚れた古びた包帯が、まるで死者を縛り付けるかのように幾重にも巻き付けられている。
顔は黒い布の前垂れで覆われ、表情を伺うことはできない。ただ、布の隙間から覗く双眸だけが、意志の介在しない虚無的な光を放ち、酒場の中をゆっくりと見渡した。
(なんだ……この、肌を刺すような重圧は……!)
アルトは反射的に剣の柄に手をかけようとしたが、すぐ隣のギエナが、テーブルの下でアルトの膝を強く制した。
ギエナは表情一つ変えず、さも面白くもない話を続けているふりをして、ジョッキに残った濁った水を口にする。ローブのフードを深く被り直したバナビーもまた、背中を丸め、どこにでもいる老いた労働者を装って雑談に興じる演技を続けていた。
奇妙なのは、周囲の客たちの反応だった。
彼らはその怪物じみた男の存在に気付いているはずなのに、あえて視線を合わせず、まるでそこに何も存在しないかのように振る舞い続けている。それは恐怖というよりも、触れてはならない"既知の汚れ"を忌避するような、冷淡な無関心だった。
包帯の男は、のそり、のそりと、重い足音を立てて店内を闊歩した。
獲物を探す獣のような足取り。
アルトのすぐ背後をその影が通り過ぎた時、鼻を突くほどの強烈な薬品の匂いと、腐敗しきった物語の死臭が漂った。
男はしばらくの間、無機質な視線で店内を検分していたが、やがて興味を失ったかのように扉を押し開け、再び夜の闇へと消えていった。
「…………ふう」
完全に気配が消えたのを確認して、ギエナが深く長い息を吐いた。
「何とか、いなくなったみてえですねえ。……生きた心地がしやせんでしたよ。バナビー殿、あれは一体何なんです? 兵士って雰囲気じゃあなかったが」
バナビーはゆっくりと顔を上げ、フードの奥に隠れた鋭い瞳を入り口へと向けたまま、静かに口を開いた。
「あれは、"禁忌衆"。……この国の闇の側面を体現する、番人の一人です」
「禁忌衆……? それが、プレアデスの守護者だと仰るのですか?」
アルトの問いに答える代わりに、バナビーは重い腰を上げて立ち上がった。
「……河岸を変えましょう。ここには流石に、耳が多すぎる。……もっと深い話をするには、相応しい場所が必要ですな」
酒場を出て、埃っぽい男性領のメイン通りを避けるようにして、バナビーは迷いのない足取りで入り組んだ裏路地へと一行を導いた。
崩れかけのレンガ壁と、陽光を拒むような狭い路地。湿った風が吹き抜け、どこか遠くで男たちの罵声や、何かを削るような不気味な音が響いている。
一本の袋小路に入ったところで、バナビーは足を止め、壁に背を預けて振り返った。
「……お二人は、"姫降ろしの儀"について、どこまでご存知ですかな?」
「……いや、そんなには。この世界の女性に、聖典を媒介にして異世界の魂を降ろし、魔法を再現する……それくらいの認識ですが」
アルトが答えると、バナビーは暗い影を帯びた好々爺の笑みを浮かべた。
「では、さらにもう一歩踏み込みましょう。……もし、男性に対してその儀式を行った場合、どうなるかをご存知でしょうか?」
ギエナとアルトは、思わず視線を交わした。
そんな話、聞いたこともない。この世界の常識において、"姫"とは文字通り女性だけがなり得る、聖なる依代のはずだ。
「……正解は、残酷なものです。おおよそ半数は物語の負荷に耐えきれず、魂ごと消滅する。そして、残りの半数は――ああなります」
バナビーが顎で示した先、路地の切れ目から見える大通りを、先ほどの包帯の男――禁忌衆が、ゆっくりと横切っていくのが見えた。
「物語の力を"魔法"として、現実を歪めるほどに昇華させることができず、ただ物語が持つ狂気と暴力性だけが肉体を肥大させた……。巨躯にて怪力を振るうばかりの、言語を持たぬ野蛮な怪物。それが、あの禁忌衆の正体です」
「……そんな。あれが、儀式の失敗作だというのですか……?」
アルトは戦慄した。
あの不気味な姿は、呪われた変異ではない。人為的に、物語を無理やり流し込まれた末の、魂の壊死の結果なのだ。
「……わからねえな」
それまで黙って話を聞いていたギエナが、低く濁った声で割り込んだ。
「バナビー殿よう。あんたがわざわざそんな悍ましい話を披露したってことは、本旨はもっと別の所にあるんじゃねえか? 失敗して怪物になりました、可哀想に……なんて同情を誘うための話じゃねえだろ」
ギエナの鋭い指摘に、バナビーは静かに頷いた。
「……ええ。では、もう一つ問いましょう。どうして、"禁忌衆"なんてものが、組織として存在するほど数多く存在するのでしょうか?」
アルトは心臓が冷たくなるのを感じた。
失敗作が"存在する"ということ、それはつまり――。
「……まさか。彼らは、わざと……?」
「そのまさかです。試したんですよ。……古来より伝わる聖典の力を、より強固な男性の肉体に宿らせれば、さらなる軍事力になり得るのではないか。"男に儀式を行ったらどうなるのか"という、人道という名の論理を排した単純な好奇心と、効率。……その飽くなき試行が、この国では何十年も前から日常的に行われていた」
バナビーの言葉は、崖の上の白亜の都の美しさを、どす黒い泥で塗り潰していくようだった。
「プレアデス聖教国は、決して聖なる祈りの地などではありません。ここは――巨大な実験場なのです」




