216話「場末の酒場にて」
◆◇◆
古い油の匂いと、安酒の饐えた香りが充満する、プレアデス男性領の片隅。
喧騒渦巻く酒場で、その老紳士――バナビー・フォン=アイゼンベルクは、深い溜息と共に使い古されたフードを降ろした。露わになったのは、かつての大戦で"鉄壁"と謳われた勇姿、そして隠しきれない疲労の痕跡だ。
「まさか、驚きました。バナビー殿が、この国に……こんな場所にいるなんて……」
アルトが声を潜め、困惑を滲ませながら問いかけた。
目の前に座るバナビーは、一瞬だけかつての好々爺めいた穏やかな笑みを浮かべたが、その瞳の奥には拭い去れない影が沈んでいる。
「ははは……。いや、本当に、驚かせてしまいましたな。どこから話したものでしょうか。……少々、立て込んでおりましてな」
バナビーは使い古されたテーブルの上に肘を突き、組んだ指の間に視線を落とした。その手には、以前エリダヌスで見た時には無かった新しい傷跡――何か鋭利な刃物、そして、焼かれたような跡が、痛々しく刻まれている。
「と、言うと? ミラク様の身に、何かあったんですかい」
ギエナが濁った水の入ったジョッキを弄びながら、鋭い視線を向けた。
「何かあったかと聞かれれば、ありましたな。……私はお嬢様の付き添いで、この聖教国を訪れました。本来ならば、今頃はエリダヌスで再興の手助けをしているはずでしたが……」
バナビーは一度、喉を潤そうとしてジョッキを手に取ったが、中の濁った液体に鼻を顰め、一口もつけずにそっとテーブルに戻した。彼の喉は渇いているはずだが、それ以上に語るべき言葉が重く、胃の奥に溜まっているようだった。
「……二週間ほど前でしょうか。お嬢様は帝国領土内から、彼女の祖父……セプテニア公を救い出す計画を実行に移されたのです」
「……セプテニア公か」
ギエナが記憶の糸を手繰るように目を細める。
「帝国の重鎮、セプテニア公。確か、エリダヌスへの外交特使なんかも務めていた、穏健派の筆頭でしたっけね。……流石に孫娘が国を裏切って離反しちゃ、あの爺さんも立場がねえってことですかい?」
「……左様。ただ、それも理由の一つではありますが、帝国内部の情勢は、我々が考えていた以上に急速に悪化していた、というのが大きいでしょうな」
バナビーは声を潜め、周囲に会話が漏れないよう細心の注意を払いながら続けた。
「現在のフォルナクス帝国は、他国侵略を力ずくで推し進める"急進派"が完全に実権を握っております。彼らにとって、他国との対話を説く"穏健派"の有力者は、もはや排除すべき邪魔者でしかない。……セプテニア公の身には、刻一刻と暗殺の危機が迫っておりました。お嬢様はそれを、見過ごせなかったのですな」
「……それで、帝国へ。救い出す必要があった、ということですね」
アルトの言葉に、バナビーは重々しく頷いた。
「ええ。それに、エリダヌス連邦としても、"人魚姫"アケルナル様を失った今、国防の要である"姫"……すなわちお嬢様の力を繋ぎ止めておく必要がありました。……帝国の穏健派を救出し、エリダヌスの庇護下に置く。それが成功すれば、エリダヌスは帝国に対抗するための正当な大義と、旧勢力の情報を手に入れられる。……そう踏んだわけです」
「なるほど、腐ってもエリダヌスは大陸の貿易の要衝。そこを後ろ盾にしたミラク様なら、帝国の魔手からセプテニア公を守り抜ける。……理屈は通りやすが、相手はあの帝国だ。一筋縄じゃいかなかったんでしょう?」
ギエナの問いに、バナビーの顔が、苦渋に満ちたものへと歪んだ。
「……結果は、上々とは言えませんでした。セプテニア公の国外脱出、その一点のみについては成功しました。……しかし、その代償はあまりに大きかった」
バナビーの手が、無意識のうちに震えを帯びる。
「お嬢様が率いていた直属の部隊"掌"。その半数を失い……お嬢様御自身も、魂を削るような深手を負われました」
「……つまりそれは、帝国の"姫"との戦いで?」
アルトが緊張を孕んだ声で尋ねる。バナビーは、悪夢を思い出すかのように目を伏せた。
「ええ。"月夜に狂ったかぐや姫"。……そう呼ばれる未知の"姫"が、脱出路に立ち塞がったのです。……私もお嬢様も、持てる限りの全力を尽くしましたが……残念ながら、彼女の"理"を打ち破ることは叶いませんでした」
バナビーのローブの袖から覗く腕の傷を、アルトは改めて観察した。
アルト自身、最強の騎士ヴェルギウスや、狂乱したアンタレスとも刃を交えてきた。だからこそわかる。この老紳士が負った傷は、単なる肉体的な損傷ではない。
恐らく、一歩間違えば命にも届いていた――そんな傷だった。
「……俺たちはミラク様の実力をよく知らねえが、"鉄壁"のバナビー。あんたのことは、あの大戦を潜り抜けた連中なら誰でも知ってまさあ。あんたの盾を貫き、これほどの傷を負わせる……。相手の"姫"ってのは、それほどまでに化け物染みてたんですかい?」
ギエナが、冗談めかした口調を捨てて尋ねた。
「化け物……。ええ、まさに。……我々は辛うじて逃げ延びましたが、お嬢様は自らの非力さに絶望なさいました。……帝国を、そしてあの狂った竹林の姫を打ち破るための力。それを得るために、我々はこの禁忌の地、プレアデスを目指したのです」
バナビーは語り終えると、ふう、と長く細い息を吐いた。その仕草には、言葉で語った以上の疲労が滲んでいた。
「……事情は、よく分かりました。バナビー殿。ミラク様も、過酷な運命を背負ってここへ来られたのですね」
アルトは自分たちの置かれた状況と、ミラクのそれを重ね合わせる。
誰もが、大切なものを守るために、この呪われた聖教国へと引き寄せられている。
「それで……先ほどの件ですが、バナビー殿。先んじてこの国に入った貴方は、プレアデスの裏側について、何かをご存知なのでしょうか……?」
アルトが真剣な面持ちで身を乗り出すと、バナビーは左右を素早く確認し、さらに声を潜めた。
「……お話ししましょう。我々が、男性領の地下で目撃した――」
バナビーの唇が、真実を紡ごうと動いた。
しかし、その言葉が音になるよりも早く、酒場の入り口から、不気味なほどの重圧が流れ込んできた。
ガラン、と。
古びた扉の鐘が、悲鳴を上げるように激しく鳴り響く。
「……っ!?」
バナビーが、咄嗟にフードを深く被り直した。
アルトもギエナも、即座に酒場の入り口へと視線を走らせる。
そこに現れたのは、煤けたランプの光を遮るほどに巨大な人影だった――。
◆◇◆




