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215話「砕けた鏡ともう一度」


 腕の中に崩れ落ちた少女の体温は、驚くほど冷たかった。


 荒い呼吸と共に上下する肩。白磁のような肌を伝う汗。そして、その全身に刻まれた無数の細かい切り傷。

 

「ミラク……!? あんた、なんで、なんでこんなところにいるのよ!?」


 私は動揺を隠せないまま、彼女の肩を強く掴んだ。


 エリダヌス連邦での激闘。帝国からの離反。そして、アケルナルを失った連邦を守るために残ったはずの彼女が、なぜ大陸の西の果て、この閉鎖的な聖教国にいるのか。


「……はぁ、はぁ……。そう、言う……あなたこそ。はるばるプレアデスまで……よく来たものね」


 ミラク・シュピーゲル=セプテニアは、焦点の定まらない瞳をどうにか私に向け、自嘲気味に口角を上げた。その不敵な笑みだけは、かつての強気な彼女のままだ。けれど、その声は掠れ、震え、今にも途切れてしまいそうなほどに脆い。


「……帝国、セプテニア家のご令嬢? お嬢様、お知り合いですか?」


 背後で、ザラが怪訝そうに眉を寄せ、剣の柄に手をかけたまま問いかけてきた。彼女にとって、ミラクはまだ帝国の刺客か、そうでなくとも、敵国の"姫"でしかないのだろう。


 ザラの警戒を解くように、私の隣で目を丸くしていたシャウルが身を乗り出した。


「ミラク様は、あたしたちと一緒にエリダヌスで戦ってくれたんすよ! 帝国の人なのに、あたしたちを助けてくれた、とっても強くてかっこいい"姫"様っす!」


 シャウルの純粋な賞賛に、ミラクはわずかに顔を(しか)めた。


「……そんなんじゃないわ。かっこいい、なんて……」


 彼女は私の腕を借りて、どうにか自分の足で床に立った。膝ががくがくと震え、今にも折れてしまいそうだが、彼女はそれを強靭な意志でねじ伏せている。


「現に……力不足を感じて、わざわざここまで来たわけだし。……自分の中に宿る"物語"に食い破られそうになって……(すが)る場所なんて、ここしかなかったもの」


 目を伏せ、首を振るミラク。


 あのプライドの高い彼女が、自らの非力さを認めた。その事実こそが、彼女がこれまでに歩んできた時間の過酷さを物語っていた。


 ミラクは私から離れると、壁際で悠然と眺めていたリラ・マイアへと視線を向けた。


「……とにかく、私は試練を……この"狂想"を乗り越えたわ。これで約束通り、次の訓練場に案内してくれるのよね?」


 リラはヴェールの下で、くすくすと喉を鳴らした。


「いいよぉ、もちろん。そういう約束だったからねぇ。……でもぉ、その前に少し休んだほうがいいんじゃない? 今の君、魂の形がボロボロに毛羽立っちゃってるよぉ?」


 確かに、今のミラクは一刻も早い休息が必要な状態だ。顔色は紙のように白く、魔力の残滓(ざんし)が制御を失って、彼女の周囲で火花のようにパチパチとはぜている。


「……ええ、そうさせてもらうわ。言われなくても、一歩歩くのが精一杯よ」


 ミラクは、ふらつく足取りで出口へと向かい始めた。


 ザラが道を開け、シャウルが心配そうにその背中を見送る。


 通り過ぎる際、ミラクは私の隣で足を止めた。彼女の瞳には、先ほどまでの虚脱感とは違う、鋭い警告の色が宿っていた。



「――気を付けて。ノクティア」



 彼女の低い、掠れた声が耳元に届く。


「"狂想"は……あの中にある世界は、思っているよりもずっと苛烈よ。……飲み込まれれば、本当のあんたは二度と帰ってこれないわ」


 それだけ言い残し、ミラクは一度も振り返ることなく訓練場を去っていった。


 彼女があそこまで疲弊し、魂を削られるほどの試練。

 

 "鏡を砕いた白雪姫"。


 彼女は、あの門の先で何を砕き、何に砕かれたのだろう。


「さて、とぉ」


 リラが、パンと小気味よく手を叩いた。その音で、場の空気が修行前のそれに引き戻される。


「再会のご挨拶は済んだかなぁ? さあ、ノクティア。あなたの修行も、始めるとしようかぁ」


「……ええ。準備はできているわ。……何からすればいいのかしら?」


 私は心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、リラに向き直った。


 リラは再び、先にある歪んだ空間――"狂想の庭"の最奥に坐す門を指差した。


「簡単だよぉ。あの門を潜って、その先にある景色を見てくるのお。……時間は関係ない。ただ、最後まで耐え抜いて、自力で戻ってくること。それができれば、ミラクと同じ、次のステップへ案内してあげるよぉ」


「景色を……見てくるだけ?」


「そう、見てくるだけぇ。……それが、どれほど難しいことかは、やってみればわかることだけどねぇ」


 リラは平然と言い放ったが、ミラクのあの惨状を見れば、それが言葉通りの単純な試練でないことは明白だった。


「お嬢様……。危険です。私が先に行き、安全を確かめましょう」


 ザラが私の前に立ち、銀のレイピアの柄を握りしめた。


 だが、リラは首を横に振る。


「だめだよぉ、騎士ちゃん。これは"魂の同調"の修行。物語を宿していない君が入っても、何も見えないか、あるいは……異物として世界に排除されて、いなくなっちゃうかもねえ」


「……っ」


「……大丈夫よ、ザラ。私が行くわ」 


 私はザラの肩に手を置き、静かに首を振った。 


 カノンとの戦いで垣間見た、あの"根源"の力。


 私はまだ、あの力が何なのか、自分がどうして"シンデレラ"という物語を背負わされたのか、その本質を何一つ理解していない。


 帝国と戦うため。みんなを守るため。そして、この世界の歪んだプロットを書き換えるため。


 ここで足踏みをしている暇はない。


「ま、気張らず行ってきなよ、ノクティア」


 後ろで腕を組んでいたカノンが、珍しく真剣な表情で私を見ていた。


「あんたが、自分の"物語"をどう蹴飛ばしてくるかさ。……まあ、ヤバくなったらあたしが無理やり引きずり出してやるから、精々、泥を啜ってでも帰ってきな」


「……心強いわね。ありがとう、カノン」


 私は一歩、また一歩と、歪んだ空間へと歩み寄った。


 近づくにつれ、門の向こう側から聞こえてくる"音"が変わっていく。


 それは風の音のようでもあり、誰かの嗚咽のようでもあり、あるいは、時計の針が刻む無機質な音のようでもあった。


 目の前の空間が、水面のように激しく波打つ。


 そこには、冷たい灰色の霧が立ち込めていた。

 

(……怖くない。これは、私自身の力に向き合うための道)


 自分に言い聞かせるように、私は大きく息を吸い込んだ。


 視線を固定し、真っ直ぐに手を伸ばす。


 指先が歪んだ空間に触れた瞬間、氷のような冷たさと、焼けるような熱さが同時に全身を駆け巡った。

 

 光が弾ける。

 感覚が、上下左右の概念を失い、霧散していく。

 

 私は、その混沌の奥へと――自らの物語の深淵へと、一歩を踏み出した。


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