212話「天地を分かつ理由」
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上を見上げれば、そこには神々しいまでの白亜の都が、陽光を反射して輝いている。断崖の絶壁に咲いた一輪の白蓮のごときその姿は、確かに"地上の楽園"と呼ぶに相応しいものだった。
しかし、一度視線を足元に落とせば、そこには救いようのない現実が泥のように堆積している。
「……まあ、なんというか、予想はしてましたが。とんでもないところですね、ここは」
アルトは、目の前に供された木皿を見つめながら、消え入りそうな声で漏らした。
場所は、プレアデス聖教国の最下層。断崖の麓にへばりつくように形成された"男性領"の一角にある大衆食堂だ。
しかし、食堂、とは名ばかりだった。
四方を煤けた板材で囲んだだけの建物は、隙間風と共に砂埃を運び込み、床は長年の調理で飛び散った油と泥が混じり合って、歩くたびに不快な粘り気を持って靴底に吸い付く。
店内に満ちているのは、安酒の鼻を突く匂いと、大声を張り上げて笑い飛ばす労働者たちの荒っぽい熱気。その喧騒は、先ほど門で別れた聖域の静謐さとは、およそ同じ国家のものとは思えないほどに対極にある。
「そんなこと、わかりきってたことでしょうがよ。ほれ、冷めないうちに食いねえ。味の方は保証しねえが、腹は膨れる」
向かい側に座るギエナ・アルファルドが、無造作にジョッキを煽りながら答えた。
彼の前には、なみなみと水……というよりは、微かに濁った液体が注がれたジョッキと、出所の知れない肉を煮込んだ、泥のような色のスープが置かれている。
ノクティアたち女性陣を見送り、"潔癖の門"が閉ざされた後、アルトとギエナはまず宿を探して歩き回った。しかし、この"男性領"には、旅人を歓迎するようなまともな宿など存在しなかった。
あるのは、日雇いの労働者が身を寄せ合う、布団とも呼べない襤褸が敷かれただけの簡素な木賃宿が一軒。そこをなんとか押さえた彼らは、これからの待機期間に備えて腹を拵えるべく、この活気に満ちた、しかし不潔な食堂へと流れ着いたのだった。
「はい……。というかこれ、何の、どこの肉ですか……?」
アルトは不気味な形をした肉の塊を匙ですくい上げ、渋い顔をした。
王国であれば、平民の食卓であっても、もう少し食べ物らしい色をしているはずだ。目の前のそれは、筋が多く、独特の野性味のある臭いが鼻を突く。
「おじさんくらいになると、こういうのは"肉の味がする何か"として割り切って食うもんでさぁ。坊っちゃんも、この先長ぇんだ。好き嫌い言ってちゃ、身体が持ちやせんぜ」
ギエナは手本を見せるように、大口を開けてその謎の肉を咀嚼した。
アルトは覚悟を決め、それを口に運ぶ。
――硬い。
そして、驚くほどに味が薄い。
しかし、噛みしめるたびに感じる生命の逞しさは、確かにこれから始まる"待機"という名の忍耐には必要なものかもしれない。
一口、二口と無理やり喉へ流し込みながら、アルトは辺りを伺った。
客は皆、泥に汚れた服を着た男たちだ。採掘場か、あるいは建築現場での労働帰りなのだろう。彼らは互いに下卑た冗談を言い合い、聖教国の法などどこ吹く風といった様子で酒を煽っている。
この男性領を治める法は、崖の上のそれとは全く別物なのだと痛感させられる。
「ギエナ殿。一つ、聞いてもよろしいですか」
アルトは声を潜め、ジョッキの中の濁った水を見つめながら切り出した。
「この国……プレアデスは、"姫"と、それを支える部分以外を、あまりに徹底して切り離しています。女性を聖域に、男性をこの掃き溜めに。まるで、別の生物として扱っているような……。何故、これほどの差別を強いるのでしょうか」
ギエナは匙を止め、薄暗いランプの光に照らされたアルトの顔をじっと見つめた。
彼の眼帯に隠された右目。そして、若くして多くの責任を負うことになった若き騎士の真面目すぎる表情。
ギエナは小さく溜息をつき、背もたれに身を預けた。
「坊っちゃん。この国にとって、男が穢れとされる理由は、単に宗教上の教義だけじゃないんだぜ」
「……穢れ、ですか? それは肉体的な不浄や、暴力性といったものを指しているのでしょうか」
「半分正解だな。んじゃ、その本質的な穢れってのは何だと思う?」
アルトは考える。
男性は"姫"の力を宿す器にはなり得ない。だから、神聖な物語を汚す異物として排除される。それは理解できる。だが、それならば単に"入れない"だけでいいはずだ。
ここまで徹底して、不衛生で過酷な環境に押し込め、人間としての尊厳すら削り取るような扱いをする必要があるのか。
「……わかりません。というか、単に性別というだけで、そこまで極端に"綺麗"とか"汚い"とか、そんな風に分けられるものなんですか?」
「へえ、まだわかっちゃいねえな。坊っちゃんは純真だ」
ギエナはジョッキをテーブルに置いた。ドン、と鈍い音が喧騒に紛れる。
「それだよ。男であるという事実だけでいい。男と女は、本質的に違う生き物だ。思考も、役割も、欲も違う。プレアデスのような"物語"で国を支配しようとする連中にとっちゃあ、構成要素は少ねえほうがいいに決まってる。余計なノイズは、物語の整合性を乱すだけだからな」
ギエナの言葉は、鋭い刃のようにアルトの思考を切り裂いた。
"姫"という現人神を頂点に据え、全ての国民がその経典に従って生きる。その究極的な独裁国家において、異なる価値観を持ち得る"男性"という存在は、管理を難しくさせるだけの不確定要素に過ぎない。
「思想を統一するんなら、男を排除し、女だけで固めたほうが効率がいい。"姫"至上主義なんて極端な真似をするなら、なおさらだ」
彼は一度言葉を切ると、テーブルに置かれたカトラリーを、まるでチェスの駒を配置するように動かした。
「あるいは――男たちを安価な労働力、あるいは使い潰しても構わない"資源"としてこの泥の中に飼い慣らし、その犠牲の上に、成し遂げたい何かが、あるのかもしんねえな」
「……成し遂げたい、何か?」
アルトの脳裏に、断崖の上に聳えるアルキオネの眩い姿が浮かぶ。
あの美しさは、この下の泥によって支えられている。
だとしたら、その"目的"とは一体何なのか。
その問いがアルトの口から零れるよりも早く、背後から氷のように冷たく、けれど威厳に満ちた声が響いた。
「――ご存知無ければ、お教えしましょうか?」
嗄れた、けれど不思議と耳に残る洗練された声だった。
アルトとギエナの身体が、同時に強張った。
騎士としての本能が、死角から現れたその人物に最大限の警戒を促している。
いつの間に、背後に立たれていた?
喧騒に満ちたこの食堂で、足音一つ立てずに。
「……何奴だ」
アルトが低く唸り、剣の柄に手をかける。
ギエナもまた、飄々とした態度を消し、鋭い眼光を背後の影に向けた。
そこに立っていたのは、砂埃で汚れきった灰色のローブを纏った人物だった。
深く被ったフードは顔の半分以上を隠し、その影からは疲弊しきった、しかし鋭い光を失っていない双眸が覗いている。
男の纏う空気は、周囲の労働者たちの泥臭いそれとは、明らかに異質だった。
例えるならば、泥の中に落ちてもなお、磨り減ることを拒む"古い銀"のような輝き。
「……っ、あなたは!?」
アルトはその独特な気配に、覚えがあった。
しかし、何故。
何故、彼がこのような掃き溜めの底に。
ローブの人物は、周囲に会話を聞き取られないよう、わずかに声を落とした。
そして、静かな所作でフードを降ろす。
露わになったのは、砂埃に塗れながらも美しく整えられた白銀の髪。
そして、老境に差し掛かりながらも、一切の揺らぎを感じさせない厳格な双眸だった。
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