211話「"管理者"」
大聖堂の重厚な扉が、音もなく背後で閉じられた。
その瞬間、外の世界に残っていたわずかな雑音が完全に遮断され、私たちは"白"という名の深淵に放り出されたような錯覚に陥った。
高い天井を支える無数の柱。ステンドグラスから差し込む光は、塵一つない空気の中で幾何学的な模様を描き、床に敷かれた純白の絨毯を淡く染めている。その光の道の先に、彼女たちはいた。
正面に座す、一人の初老の女性。
そしてその脇を固めるように控えている、二人の聖女。
一人は、ヴェールを深く纏い、その表情の一切を覆い隠した静かな佇まいの女性。
もう一人は、長い髪を後ろで厳しく結び、ひっつめたような髪型がその華奢な輪郭を際立たせている、意志の強そうな女性。
二人とも、身に纏う魔力の気配が尋常ではない。かつて戦ったどの"姫"とも違う、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが、その静止した姿勢から漏れ出していた。
「――カリオペ様、客人をお連れいたしました」
リラが数歩前に進み出ると、これまでの不真面目な響きを一切排除した、驚くほど落ち着いた口調で告げた。彼女は深く恭しく一礼すると、そのまま流れるような動作で脇に控える。
私たちは、主の正面へと促された。
カリオペ、と呼ばれた女性は、一度ゆっくりと深く頷いた。
それだけで、大聖堂内の空気が物理的な重さを増した気がした。彼女は伏せていた目を上げると、私たち一人ひとりの顔を慈しむように見つめ、そして口を開いた。
「よくぞ我が国へ、ヴァルゴ王国の特使、グラスベル嬢。そして、世界を紡ぐものの一人――"姫"君よ」
その声を聞いた瞬間、私は背筋に電流が走ったような感覚を覚えた。
低いわけでも、高いわけでもない。けれど、鼓膜を震わせるよりも先に、脳の芯に直接響いてくるような、不可思議な魔力を持った響き。
(――なに、この人の声。ずっと聞いてると、頭の芯が痺れて……思考が溶かされそう)
毒。あるいは、極上の蜜。
その感覚に呑まれぬよう、私は奥歯を噛み締めて平静を保った。隣に立つザラも、騎士としての本能が警鐘を鳴らしているのか、その手は鞘に添えられたまま微かに震えている。
「私は、カリオペ・ルーツ=セレスティーア。あなたたち"姫"が紡ぐ物語のために生きる、一人の信徒でございます」
「……お初にお目に掛かります。ノクティア・サイレンス=グラスベルと申します」
挨拶を返しながら、私は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
目の前の彼女、カリオペからは"姫"特有の魔力の揺らぎを感じない。彼女は間違いなく、この世界の人間……非力なはずの、ただの人間だ。
だというのに、彼女が放つプレッシャーは、これまで出会った誰よりも――あのアケルナルやアルフェッカ、あるいはヴェルギウスですら持ち得なかった、一種"の絶対性"を帯びていた。
まるで、自分が一冊の本の文字に成り果て、書き手の機嫌一つで消されてしまうのではないかという、根源的な恐怖。
足が竦みそうになったその時、不意に私の肩に、ぽんと軽く手が置かれた。
「……っ」
振り返ると、そこにはカノンがいた。
彼女はいつもの飄々とした笑みを消し、けれどどこか頼もしさを感じさせる視線で私を見ている。
気合を入れな、新米――そんな声が聞こえてくるような彼女の手に、私はようやく自分を取り戻した。
「……カリオペ様。今回、我々がこの国を訪れたのは、他でもなく――」
「ええ、委細、承知しております。"姫"の力を磨くためにやってきたのでしょう」
カリオペは私の言葉を先回りするように、鷹揚に頷いた。
「"姫"たちが一様に力を求める。これも、あの鉄血の帝国が戦火を拡げている影響でしょう。……この世界という物語が、あまりに急速に、残酷な終幕へと向かおうとしている。我々プレアデスは、あなた方に全面協力する用意がございます」
その返答は、あまりに明快で、あまりに好意的だった。
けれど、その協力という言葉に、私はどうしても拭えない疑念を抱いてしまう。
「……驚きました。歴史的にも、あなた方は徹底して中立を貫くものと思っていましたから。このような申し出をいただけるとは」
「世界という名の白紙に、どこの国が何を書こうと知ったことではございません。……しかし」
カリオペは初めて、その瞳に意志の籠もった、鋭い光を宿した。
「紙そのものを焼き払われては困るのです。物語が完結する前に、その書物を灰に変えようとする火種……帝国。それに対抗する力を育むのは、我ら"物語を管理する者"の義務でもありますから」
"世界を守る"のではなく、"物語が途切れるのを防ぐ"。
その言葉選びに、私はポーラの警告を思い出していた。彼女たちは善意で動いているのではない。ただ、自分たちが観測する"物語"の整合性を守りたいだけなのだ。
私は、斜め後ろに控えているシャウルに、さりげなく視線を送った。
彼女には事前に、相手の言動に"嘘の匂い"を感じたら合図をするように伝えてある。
これほど甘い言葉、そして不気味なカリオペの態度。どこかに罠があるのなら、シャウルの鼻がそれを嗅ぎつけるはずだ。
(……どう、シャウル?)
しかし、シャウルは震えるように体を固くし、困惑したように私を見つめ返した。
彼女は小さく首を振る。
――匂わない。
嘘の匂いどころか、彼女の鼻が捉えているのは、大聖堂の清浄な空気の匂いだけなのだ。
(シャウルの鼻に、反応なし……? つまり、本当に裏表なく、協力してくれるっていうの……?)
カリオペの言葉は、彼女自身の真実なのだ。
彼女は本気で私たちを助け、本気で帝国に対抗する力を貸そうとしている。
けれど、その事実こそが、私の胸の中にある奇妙な違和感をさらに大きく膨らませていた。
「……承知いたしました。貴国のご厚意、感謝いたします」
私は深く一礼した。
今は、この申し出を受けるしかない。
カリオペは満足そうに微笑み、脇に控える二人の聖女へと視線を向けた。
「では、リラ。彼女たちを修行の場へ。……素晴らしい物語が綴られることを、心より期待しておりますよ」
カリオペの、祝福の言葉を背に受けながら、私たちは回廊へと引き返した。
一歩踏み出すたびに、脳を痺れさせていた感覚が薄れていく。
けれど、大聖堂の奥深く、あの二人の聖女が放っていた、凍りつくような殺意にも似た静謐さを、私は忘れることができなかった。




