208話「潔癖の国へ」
私は、薄手の毛布にくるまって座席の隅で丸くなっているカノンを見つめた。
かつて王都ヴァルゴを震撼させ、アルフェッカの命を狙った、歴戦の"姫"。その今の姿は、遠足の帰りに遊び疲れて寝入ってしまった子供のようで、毒気を抜かれるのを通り越して、どこか非現実的な感覚すら覚える。
(……信じて、いいのよね)
私は心の中で自問した。
彼女は今のところ、隙を見て私を刺そうとしたり、馬車から飛び降りて逃走したりする気配は見せていない。
"銀髪祭"の夜、私と彼女はぶつかり合い、本気で拳を交わした。あの戦いを通じて、彼女の乾ききった心に何かが芽生えたのだと……。同じ"姫"として、私はそう信じることに決めていた。
「……でしたら、それについてはいいでしょう。ノクティア様が決めたことですから」
私の視線の先を追っていたザラが、小さく、けれど重々しく頷いた。
灰色の瞳には依然としてカノンへの不信感が渦巻いているが、主である私の決定に従うという騎士としての意志がそれを辛うじて抑え込んでいる。だが、彼女の表情は少しも晴れていなかった。
「では、次の質問を失礼します。……どうして今回の旅に、ギエナ殿やアルト殿を同行させることにしたのですか?」
ザラの問いに、私は一瞬言葉を詰まらせた。
「どうして、って……それは。二人は、私の大切な――」
「感情的な理由を聞いているのではありません。戦略的な意味を問うているのです」
ザラは私の言葉を遮り、淡々と続けた。
「プレアデス聖教国は、大陸でも有名な"男人禁制"の国です。入国が許されるのは女性のみ。男性は、国境周辺に設けられた隔離区画である"男性領"までしか入ることができません。それは事前にお調べになった通りのはずですが?」
ザラの指摘に、私は数日前にポーラから学んだプレアデスについての知識を脳裏に展開した。
プレアデス聖教国。
そこは、この世界の"姫"という概念の中心地であり、同時に極めて排他的な宗教国家だ。
彼らが国教として奉じているのは、"聖綴教"。
この世界を、神が綴る壮大な"物語"として捉える宗教である。彼らにとって、異世界の魂を宿した"姫"たちは、神の言葉を地上に体現する現人神……すなわち、最も尊い"物語の登場人物"なのだ。
「……ええ。存じているわ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
プレアデスの教義に従えば、姫は"最も清らかな依代"でなければならない。その清らかさを保ち、物語の純度を守るという名目の下、国内には可能な限り女性しかいられないよう、経典で定められている。
男性は物語の雑音として、聖域への立ち入りを厳しく制限されているのだ。
「その理由は、私も気になっていました。ノクティア様」
隣で静かに剣の鞘を拭いていたアルトも、ザラの言葉に便乗するようにしてこちらを向いた。
彼の失われた右目を覆う眼帯の下に、迷いのような色が浮かんでいる。
「私たちは聖教国の奥深くへは入国できません。カノン様を同行させたのも、入国できない私たちの代わりとして、聖教国内での戦力を確保するためだと思っていたのですが。我々が同行しても、国境の"男性領"で留守番をすることになるだけではないでしょうか?」
アルトの言葉は、合理的だった。
戦力が必要ならば、王都の近衛騎士団から女性騎士を募ることもできたはずだ。にもかかわらず、私はあえてギエナとアルトという、グラスベル領でも重要な役職にある二人を連れ出した。
私は姿勢を正し、二人の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「そうね、アルト。ザラ。……今回、二人を連れてきたのは、言うなれば最悪の事態への備え……つまり、念のため、よ」
「念のため、ですか?」
アルトが怪訝そうに眉を寄せる。私はこれまでの旅路で、幾度となく味わってきた苦い経験を口にした。
「これまで、私たちが訪れた国……エリダヌス連邦も、ガーランド王国も。私たちの来訪と同時に、必ず帝国からの襲撃を受けていたわ。覚えているでしょう?」
私の言葉に、車内の空気が一段と張り詰めた。
エリダヌスでは、国家間の条約会議という極めて公的な場を、帝国の暗殺部隊が襲った。
ガーランドでは、対帝国の同盟を結ぼうと向かった矢先、アダーラ率いる"姫"の軍勢が宮殿を蹂躙した。
王国が外に目を向け、他国と手を取ろうとするたびに、フォルナクス帝国は精密な機械のような正確さで、その隙を突いてきている。
「……ガーランドの時は、リゲルの覚醒がなければ、今頃私たちは全員死んでいた。あるいは、帝国に捕らえられていたわ。……私は、同じ過ちを三度繰り返すつもりはないの」
私は窓の外、荒野の先にそびえる白亜の壁を見据えた。
「プレアデス聖教国が何を隠しているのか、帝国がどれほどの情報を握っているのかは不明よ。だから今回は、可能な限りコンパクトに、それでいて"最大戦力"を動かす必要があるの。私とカノン、そしてミラクが内側から動く間、外側にギエナとアルトという、帝国を退けた実績のある二人が控えている……。これなら、不測の事態が起きても対応可能でしょ?」
「……なるほど。内側に姫の火力を。外側には、帝国の一個大隊を撃退し得る騎士の技量を。盤面を二重に構えるというわけですか」
ザラが納得したように顎を引いた。
私の言葉を受け、御者台との仕切り窓からギエナが「へっへっへ」と愉快そうに顔を出した。
「と、いうわけでさあ。なあに、プレアデスとグラスベル領は言うほど離れちゃいやせんし、いざとなりゃあ、おじさんとアルト坊っちゃんだけで早馬飛ばせば、数日で援軍を連れて戻ることもできる。王国内の状況を常に把握しつつ、お嬢様の背中を守る。柔軟に動けるようにしたってわけでさぁ」
ギエナは手綱を握り直しながら、頼もしい笑みを浮かべた。
「お嬢様は、おじさんたちをただの護衛じゃなく、"独立した別働隊"として見てくれてる。光栄な話じゃないですかねぇ、アルト坊っちゃん?」
「……はい。ギエナ隊長の仰る通りです。不甲斐ない悩み方をして失礼いたしました、ノクティア様」
アルトの表情から迷いが消え、代わりに凛とした決意が宿った。
そう。今回もまた、帝国が動いてくる可能性は極めて高い。
それに、ポーラの警告にあった通り、聖教国自体もまた、底の知れない闇を抱えている。備えは、過剰であるに越したことはないのだ。
カノンがいびきをかきながら寝返りを打ち、毛布から細い足がはみ出した。その無邪気な様子を横目に、私はふと、この旅の行き着く先を思った。
「……ほら、そんな話をしてたら見えてきやしたぜ」
ギエナが鋭い声を上げ、前方の地平線を指差した。
私は慌てて窓から身を乗り出し、その光景を網膜に焼き付けた。
地平線の彼方、赤茶けた荒野が唐突に途切れ、そこには雲を突き抜けるような巨大な絶壁がそびえ立っていた。
太陽の光を反射して白く輝くその壁は、自然物とは思えないほど滑らかで、上部には幾重もの尖塔と、美しくも威圧的な石造りの都市が、断崖にしがみつくようにして築かれている。
「あれが、プレアデス聖教国の国境……"純潔の門"でさあ」
ギエナの声には、冗談を言い合うような軽さはもうなかった。
いよいよ、始まるのだ。
"物語"が生まれ、そして"姫"が終わる場所。
その門が、ゆっくりと私たちを飲み込むために、口を開けて待ち構えているように見えた。




