206話「西方行の馬車」
ポーラの低く、どこか楽しげですらあった警告が、耳の奥でくぐもった残響となっていた。
カビ臭い図書室の空気、積み上げられた古文書の山。それらが急速に色褪せ、代わりに身体を絶えず揺さぶる硬い振動が、私の意識を現実へと引き戻していく。
「……ん、……っ」
重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは馬車の木製の手摺りだった。
いつの間にか、座席に揺られながら深く微睡んでしまっていたらしい。ポーラの話を思い出していたのは、これから向かう場所が彼女の言っていた"謎の国家"そのものだからだろうか。
「おっ、お嬢様! 目が覚めたっすね!」
すぐ横から、元気な声が飛び込んできた。
至近距離で顔を覗き込んできたのはシャウルだ。彼女は心配そうに眉を下げていたが、私の目が合った瞬間にパッと表情を明るくさせた。
「……おはよう、シャウル。……私、どれくらい寝ていたかしら」
「二時間くらいっすかね? ずっと難しそうな顔をしてうなされてたんで、起こしたほうがいいか迷ってたっす。でも、寝る子は育つって言うし、お嬢様はもっと栄養を摂って寝たほうがいいと思うっすよ!」
「……寝る子は育つ、ね。もう十分育っているつもりなのだけれど」
私は小さく苦笑し、手近な水筒の水を一口含んだ。
喉を通る冷たい感触が、ようやく思考の霧を晴らしてくれる。窓の外を流れる景色に目を向ければ、そこにはヴァルゴ王国の豊かな緑はもう影も形もなかった。
私たちは今、王国の西方国境を越え、かつての小国"トリアングルム"の領土であった荒野を突き進んでいる。
帝国による戦災から立ち直ることのできぬまま滅んだその地は、一部の帝国占領地を除けば、見渡す限りの赤茶けた土と、風化して骨のようになった石造りの廃墟が点在するだけの、死んだ土地だ。砂塵が舞い、乾いた風が馬車の隙間から入り込んでくる。
この不毛の地を数日かけて通り抜けた先に、断崖絶壁の聖域――プレアデス聖教国が待ち構えているのだ。
「おやおや、お嬢様。これから海のものとも山のものともつかない聖教国に乗り込もうって時に、この揺れの中でうたた寝たぁ、いやはや、剛毅なもんですねえ」
御者席との仕切り窓から、ひょっこりと顔を出したのはギエナだった。
彼は相変わらず、特有の緩い口調で、ニヤニヤとこちらをからかってくる。けれど、その手はしっかりと手綱を握り、馬の状態と周囲の警戒を片時も怠っていない。
「……失礼ね、ギエナ。気が抜けていたわけじゃないわ。ただ、少し昔のことを思い出していただけよ」
「ははあ、なるほど。おじさんくらいになると、昔を思い出すのは決まって布団の中か、酒に酔った時くらいなもんですが。お嬢様は多忙ですからねぇ」
ギエナの軽口を遮るように、馬車の壁に凭れていたアルトが姿勢を正した。
彼は眼帯に手をやり、真っ直ぐな瞳で私を見つめる。
「……ノクティア様。王都での戦い……アルフェッカ様の件、お力になれず、本当に申し訳ございませんでした。私が不甲斐ないばかりに、貴女にばかり重荷を背負わせてしまって」
アルトの声には、消えない悔恨が滲んでいた。
ガーランドでの死闘による負傷。それを癒やすために王都での変事に参加できなかったことが、彼の中で棘となって残っているのだろう。
「気にしないで、アルト。あの時は、貴方にしかできない"別の仕事"……国境の守りがあったでしょう? 貴方がいてくれたから、グラスベル領は無事だったのよ」
「そうですぜ、坊っちゃん。レグルス砦に攻め込んできた連中を、おじさんと二人で追い返したのは立派な戦功でさぁ。もう、傷も十全に癒えた。これからはお嬢様の盾として、思う存分働いてもらわにゃ困る」
ギエナがフォローを入れると、アルトはわずかに表情を和らげ、力強く頷いた。
「はい。……もう、どこへでもお供します。プレアデスがどのような場所であろうと、私と、この"アルシャイン"がお守りしますので」
頼もしい言葉。けれど、そんな温かい空気とは対照的に、私の正面――アルトの隣に座るザラだけは、氷のような沈黙を貫いていた。
彼女の瞳は、車内の"ある場所"を射抜くように凝視している。
「……そろそろ、説明していただけますか、お嬢様」
ザラの冷徹な声が、車内の空気をピシリと凍らせた。
感情が昂ると荒々しくなる彼女だが、今は逆に、怒りを極限まで押し殺したような静謐さがある。
「ええ、そうね。皆にもきちんと話しておかなくちゃ。今回の旅、プレアデスに向かう目的について――」
「違います。ああいや、それも聞かせていただきたいんですが、それより――」
ザラは、指先で馬車の一番奥……荷物置き場に近い座席を指し示した。
「――なんで、あの女がここにいるんですか」
彼女が指差した先。
そこには、薄手の毛布を一枚頭から被り、無防備に足を投げ出して眠りこけている少女の姿があった。
ガタガタと馬車が大きく揺れるたび、彼女の口からは「むにゃ……」とか「ずー……」とか、緊張感の欠片もない寝息と、時折盛大ないびきが漏れ聞こえてくる。
スラリと長い手足に、艷やかな黒髪。そこに横たわっていたのは、単騎で王国すらも脅かした歴戦の"姫"――カノンだった。
「なんで、って……。ザラ、前にも言ったでしょう? 今回の旅に、彼女も協力してくれることになったのよ。戦力は、多いに越したことないじゃない」
「納得がいきません。戦力は多いに越したことはない。それは理屈ではわかります。ですが、あいつは……そのカノンとかいう女は、アルフェッカ様を暗殺しようとした張本人、大罪人でしょう?」
ザラの言葉はもっともだった。
一週間前まで命を削り合って戦った敵だ。近衛騎士団として、そして誰よりもアルフェッカを崇拝する彼女にとって、カノンがこの狭い馬車の中に同乗している事実は、不快以外の何物でもないだろう。
「あー、ザラ殿。おじさんも気持ちはわかるんですがね、こればっかりはお嬢様の判断でさぁ。ほら、見てくださいよ、あの寝顔。あれのどこに、世界を滅ぼそうなんて野心があるように見えます?」
「黙ってください、ギエナ殿! あなたも甘すぎます!」
ザラに一喝され、ギエナは首を竦めて「おっと、こわいこわい」とまた御者席へと引っ込んだ。アルトも複雑そうな表情でカノンを見ている。
「……ザラ。あなたの懸念は正しいわ。彼女を完全に信用しているわけじゃない。でもね」
私は、ぐっすりと眠るカノンの姿を見つめながら、声を低めた。
「でも、彼女の同行は、私一人の独断じゃないの。……あの、アルフェッカ本人の、たっての願いでもあったのよ」
「アルフェッカ様が、直々に……? なぜ、そのような……」
ザラが絶句する。
私は窓の外に流れる、どこまでも続くトリアングルムの乾いた大地を見つめながら、旅に出る直前、王城のバルコニーでアルフェッカと交わした会話を思い出していた。




