204話「童話(おはなし)の深淵へ」
室内に漂う緊張感は霧のように立ち込め、いつまでも消えることはなかった。
机の上に広げられた大陸地図。そこには無数の書き込みがなされ、刻一刻と変化する戦況が血のような赤いインクで記されている。帝国による侵攻、海の覇権の喪失、そして国境砦への強襲――。
それらの情報を一つ一つ咀嚼するたびに、私の奥歯は自然と噛み締められていた。
アケルナルが命懸けで作り出してくれている時間だ。無駄にしている暇など、一秒たりともない。滅びへと向かう物語の頁は、今こうしている間にも、確実に一枚ずつ捲られている。
(……一刻も早く、帝国に対抗するための牙を整えなければ)
ガーランドに引き続き、昨晩の戦闘でも、私は痛いほど思い知らされた。
カノン。
彼女は百年の研鑽を経て、自身の力を使いこなしていた。
方や、私は。自身の魔法に振り回されてばかりだ。彼女に勝てたのも、偶然と新たな力が目覚めたからだ。
――今の私は、強大な力を持った爆弾を抱えながら、その起爆スイッチの扱い方さえ知らない子供のようなもの。
これでは、この先戦っていくことはできそうもない。
「……陛下」
私は意を決して、地図を凝視したままのセファス王を見上げた。
彼もまた、私の瞳に宿る色が、単なる報告のためのものではないことを察したのだろう。王としての威厳を纏った眉間が、わずかに寄る。
「以前、お話しした通りです。私は、動き始めようと思います。……今、すぐにでも」
静かな、けれど断固とした私の言葉が、広い室内に波紋のように広がっていった。
「……そうか。やはり、行くのだな?」
セファス王の声は、重く、沈んでいた。
それは引き留めるための拒絶ではなく、この若き令嬢に、さらなる苦難の道を歩ませることへの、一人の大人としての苦渋が混じった問いだった。
「ええ。こうなっては、もう一刻の猶予もありません。帝国が最強の姫・アケルナルを完全起動させるまでに、私は私自身の物語を……"姫"としての力を、制御し、研ぎ澄まさなければならないのです。それに――」
私は、机の上の地図に指を滑らせた。
大陸の北側に雄大に広がる騎士の国、ガーランド。
海沿いに網の目のように領土を広げた、人魚の国エリダヌス。
そして、それらの中心で強大な技術力と暴力を持って君臨する帝国、フォルナクス。
私の指は、それら主要国家から少し外れた、内陸の小さな領域で止まった。
我が国――ヴァルゴ王国の西側に位置し、帝国とは、かつて滅びた小国トリアングルムの荒野を挟んで隣接する国。
――プレアデス聖教国。
「ここなら……私の新たな力についても、何かわかると思うんです」
私は懐から、リゲルから預かった、二通目の手紙を取り出した。
彼が別れ際に渡してきたそれは、単なる親書や、励ましの類いなどではなかった。
そこには、かつてガーランドが"いばら姫"を降ろす儀式を行うにあたって、プレアデスから"聖典"を取り寄せた際のやり取りや、それに関する詳細な解析資料が同封されていたのだ。
プレアデス聖教国。そこは、この大陸において最も古い歴史を持つ宗教国家であり、何より――"姫"が初めてこの世に産み落とされた地である。
「"姫"という存在が生まれたこの場所に、なら、私の今、必要としているものがすべて揃っていると思うのです」
私の言葉を聞きながら、セファス王は深く、重い溜息を吐いた。
「プレアデスか……。あそこは、信仰という名の下に、大陸のあらゆる"物語"を管理している特異な地だ。建前上は中立を謳っているが、その実態は霧に包まれている」
「ええ。ですが、そこには歴代の姫たちの記録、彼女たちがどのように力を振るい、どのその魂を物語に最適化させていったのかという、膨大なデータが眠っています。……今の私に必要なのは、カノンのような練度を短期間で獲得するための、あるいは敵の姫の根源を断つための、禁忌の知識です」
私は、手紙の余白に記されていたリゲルの走り書きを思い出す。
『貴様の硝子を研ぎ澄ますのならば、あの国の空気は、さぞかし沁みることだろうよ。健闘を祈る』
ぶっきらぼうな、けれど、恐らく最大限の激励。
彼が何を予見していたのか、私にはまだ分からない。
けれど、昨夜目覚めたあの"熱"――魂の深淵から湧き上がったあの力の正体を知るには、プレアデスの聖域へ踏み込むしかない。それは、私という存在のアイデンティティを問う旅でもあるのだ。
私の覚悟の籠もった瞳を見つめながら、セファス王は、ようやく観念したように短く頷いた。
「……そうか。分かった。お前のことだ、思いつきや酔狂で行くのではないのだろう。グラスベル領のことも、国内の統治も、こちらで万全を期しておこう。お前は……お前の成すべきことを成してこい」
「感謝いたします、陛下」
「しかし、ノクティア。……これだけは忘れるな。そして、決して油断するな」
そこで、セファス王の視線が、かつてないほど鋭く、冷徹な光を帯びた。
王城の壁に幾重にも施された防音魔法の檻の中で、彼の声だけが、重く不吉に響く。
「プレアデスという国は、確かにお前が言う通り、"姫"が初めて生まれた場所だ。物語の揺り籠であり、奇跡の故郷でもある」
王は一度言葉を切り、私を警告するように、あるいは憐れむようにじっと見据えた。
「だが、光が強ければ影もまた深い。……あそこは、誕生の地であると同時に――」
張り詰めた空気。
窓から差し込む朝日の光さえも、その一言で凍りつくような気がした。
セファス王は、歴史の闇に隠された忌まわしい真実を突きつけるように、低い声でこう締めくくった。
「――最も多くの"姫"を、終わらせた場所でもあるのだ」




