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203話「溶鉄の夜を越えて」


 朝を迎えた王都ヴァルゴを包んでいるのは、守護者アルフェッカが死から甦ったという、神話的な奇跡の余熱だった。


 窓の外からは、夜を徹して踊り明かした民衆の笑い声や、祭りの後片付けに勤しむ活気ある音が、春の柔らかな風に乗って運ばれてくる。


 けれど、私の内側は、それとは正反対の泥のような倦怠感に支配されていた。


 アルフェッカの魔力による治療は済んでいたが、全身を苛む鈍痛と、一度融点を超えた魂が冷え固まっていくような、形容しがたい重さが消えない。鏡を覗き込めば、そこには"姫"と称えられるにはあまりに青白く、毒を飲んだ後のような顔をした少女が立っていた。


「……ハッピーエンドの、代償ね」


 私は独りごちて、重厚なドレスの裾を整えた。


 不死の"姫"でも、疲労は疲労。けれど、私には伏せっている暇もない。


 カノンとの死闘、そしてアルフェッカの復活劇。王都を揺るがした長い一夜の結末を、この国の王へ報告するために、私は王城へと向かった。


 目指すは、謁見の間。


 ……ではなく、その隣にある、セファス王の私室だ。


 厳かな、けれど、他のものよりも少しだけ控えめな、その扉を開ければ、そこには豪奢な椅子に深く身を沈めた、セファス王が待っていた。


「――よくやったな、ノクティア・グラスベル。此度も、お前の描いた筋書きは、この国を救うための冷酷かつ最良の一手となった」


 セファス王の声は、表向きの威厳以上に、確かな安堵と驚嘆を孕んでいた。


「"アルフェッカ死亡"という最悪の虚報。……それに惑わされた連中は、面白いように自分たちの尻尾を振って見せたよ。守護者が死に、国力が低下したと見るや、隠し持っていた野心を隠そうともせずにな」


「……反"姫"派の動きは、どうでしたか?」


 私は促されるまま椅子の端に腰を下ろし、王に問いかけた。


 守護者の死という最大の隙を見せつけたことで、どれほどの不穏分子が罠に掛かったのか。


「ふむ、連中は、かなり派手に動いてくれてな。私に退位を迫る書状を用意していた者、私兵を動かして王宮の占拠を画策した者……。騎士団が事前に待機していなければ、今頃この城は血の海だっただろう。だが、結果は見ての通りだ。全員検挙した。彼らには反逆罪として相応の"処分"を下す」


 セファス王は、手にした一束のリストを忌々しげに弾いた。そこには、王国内でも相応の力を持っていたはずの有力貴族の名が連なっているのだろう。


「これによって、ヴァルゴ王国の内情をかき乱す膿は一掃され、体制は以前よりも強固なものとなる。……すべてはお前の計算通り、だな。……だが」


 王の言葉が、不自然に途切れた。


 国内の掃除を終えた勝利者のそれとしては、あまりに険しく、暗い陰を落とした瞳が私を射抜く。


「……ノクティア。お前がこの王都で、その命を削って内憂を断っていた間、世界の"外側"は、お前の計算など待ってはくれなかったようだ」


 セファス王は、机に広げた古びた地図の一点――隣国エリダヌスを指し示した。


「まずはエリダヌスだ。彼らは独自の水中戦力を誇る強国だった。だが、それもすべては最強の"姫"、アケルナルの加護があってこそだ」


「……ええ。彼女は帝国の手に落ちましたが、現在は自身の魔力によって封印されているはずです」


「その封印の解読、そして彼女自身の"支配"を帝国が進めている影響が、すでに出始めている。加護を失いつつあるエリダヌスの人魚兵たちは、かつてのような長時間の深海活動ができなくなりつつあるようなのだ」


 セファス王の指が、エリダヌスの広大な沿岸部をなぞる。


「帝国の最新鋭戦艦が、人魚たちの抵抗を排して、悠然と海上の勢力圏を拡大させている。エリダヌスは今、自分たちの絶対的な領分であった海を奪われ、文字通り(おか)に干された状態だ。……これによって、帝国は海上からの補給路を完全に掌握した。我々への圧力が、一段階跳ね上がったということだ」 


 最強の姫、アケルナル。


 彼女が帝国の完全な傀儡と化せば、海の覇権は永遠に失われる。その絶望的な予感が、王の言葉を重くさせていた。


「ガーランドも悲惨だ。……先日の、複数の"姫"による襲撃の傷が癒えぬ内に、帝国は一切の慈悲もなく追撃してきた。国境付近にある砦が組織的な強襲を受け、街が一つ、完全に占拠されたという」


「……ガーランドの防衛網は、それほどまでに脆くなっていたのですか」


「うむ、自慢の騎士団も、"人類到達点"も、浅くない傷を負った。それに、新たな大公が体制を整えるのには、少しばかり時間がかかるじゃろう」


 セファス王は、目を細めつつ言った。


 ディバルド大公の死からまだ、それほど時間も経っていない。いくらリゲルが傑物とはいえ、流石に公国全土を掌握するまでは、もう幾ばくか必要なのだろう。


 そう思考する私に、王は続ける。


「"姫"のような個の暴力を抜きにしても、帝国の組織力と技術力は侮れん。そして……被害を受けたのは、我らも例外ではない」


 セファス王は、地図の北端――レグルス砦へと指を滑らせた。私の故郷、グラスベル領を守るための最大の要衝だ。


「昨夜、貴様がカノンとやり合っている真っ最中に、帝国の一個大隊がレグルス砦へと攻め込んできた」


 心臓が、冷たい手で掴まれたように跳ねた。


「……一個、大隊!? 昨夜の内に、ですか?」


「ああ。王都の混乱を計っていたのだろう。だが、幸運なことに、相手の部隊には"姫"が含まれていなかった。そして何より――ギエナ・アルファルドの戦線復帰が間に合った」


「ギエナ……。彼は、もう動けるようになったのですか?」


「ああ、深手を負っていても"砂の鬣"。奴は、侵入してきた帝国の重装歩兵を相手に大立ち回りを演じたそうでな。国境警備隊も、隊長である奴の帰還に鼓舞され、死に物狂いで砦を死守した」


 セファス王は、ふぅ、と長い溜息を吐き、椅子にもたれかかった。


「……だが、ギリギリだった。もし奴が間に合っていなければ、今頃レグルス砦は陥落し、お前の父が守るグラスベル領まで帝国の旗が掲げられていた可能性がある。……ノクティア、戦況は我々の想像以上の速度で悪化しているようだぞ」


 室内を、刺すような沈黙が満たした。


 王都での政治的な勝利が、戦場全体の絶望的な現実によって押し流されていく。


「アケルナルの完全解凍……帝国が彼女を兵器として起動させるまでに、あと二ヶ月ほど、でしたわね」


「そうだ。だが、帝国はその二ヶ月を、ただ指をくわえて待っていてくれるわけではない。……"姫"を擁しない一個大隊でさえ、これほどまでの被害をもたらすのだ。現在の均衡は長くは続かないだろう。帝国の技術力、そして最強の"姫"をも手中に収めたその勢いは、我々の想像を遥かに凌駕している」


 セファス王は、私をじっと見つめた。


 その瞳には、一人の少女に世界の運命を預けなければならないことへの、王としての苦渋が滲んでいた。


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