202話「熱も冷めぬうちに」
屋根の失われた"星の塔"の最上階には、どこまでも澄み渡った朝の空気が流れ込んでいた。
昨夜の激闘を物語る石材の破片や硝子の塵は、朝日に照らされて皮肉なほどキラキラと輝いている。私は、崩れかけた手すりに背を預け、眼下に広がる王都の情景を眺めていた。
中央広場からは、地鳴りのような歓声が今なお響いてきている。
一度は絶望に叩き落とされた民衆が、アルフェッカの復活という奇跡を目の当たりにし、その熱狂を爆発させているのだ。再開された"銀髪祭"の音楽が、風に乗ってここまで微かに届いてくる。
「……ふぅ。本当に、上手く行ったのね」
私は、肺に残るわずかな熱を吐き出すように呟いた。
隣には、どこか呆れたような、それでいて驚きを隠しきれないといった複雑な表情を浮かべたアルフェッカが、静かに座している。
今、広場で民衆の喝采を一身に浴び、少女の手を取って微笑んでいるのは、彼女の編み出した精緻な分身だ。本体である彼女はこうして、満身創痍の私と共に、都の輝きを静かに見つめている。
「蓋を開けてみれば……結局、全部あなたの掌の上だったというわけね、ノクティア」
アルフェッカが、溜息混じりに口を開いた。その視線は、遠く広場の熱狂を見つめている。
「私の死という虚報を流し、王都全体を一度絶望に沈める。それによって、潜伏していた反"姫"派の連中は、この好機を逃すまいと無理な行動を余儀なくされた。結果、最強の駒であったグリスとカノンは打倒され、これまで尻尾を掴ませなかった組織の幹部連中も、騎士団の手によって一網打尽……。完璧な戦果だわ」
アルフェッカの言葉は正しい。戦略的な観点から見れば、今回の暗殺計画の逆利用は、これ以上ないほど鮮やかな勝利と言えるだろう。
けれど、当事者である私は、首を横に振った。
「……全部思った通りにはいかなかったわよ。アルフェッカ、あなただって分かっているでしょう?」
私は、自分の震える右手に視線を落とした。
アルフェッカの髪によって強制的に癒やされつつあるものの、全身を苛む倦怠感と、引き出した"熱"の残滓が、まだ細胞の奥底にこびりついている。
「カノンが潜んでいたこと……それも、私と同じ"姫"の一人だったなんて、完全に予想外だったわ。それに、土壇場で私自身の"根源"……この力が目覚めていなければ、私は今頃、あなたの目の前で物言わぬ硝子細工になっていたはずよ」
そう、これは薄氷を踏むような勝利だった。
カノンの実力は、練度は、そして"姫"としての強度は、目覚めて数ヶ月の私を遥かに凌駕していた。
アルフェッカの文字通りの命懸けの補助があり、そして前世の記憶という名のトラウマを魔力に変換する強引な賭けが成功したからこそ、私は今ここに立っていられる。それは、知略の結果というよりは、あまりに出来すぎた幸運だったのだ。
「それでも、勝ちは勝ちよ。……そうでしょう?」
アルフェッカが私の顔を覗き込む。
私は、微かに口角を上げて頷いた。
「ええ。そうね。……それだけで十分だわ。これで、帝国と正面切ってやり合っている最中に、身内から背中を刺されるような笑えない事態は回避できたのだから」
内憂を断つ。それが今回の計画の表向きの理由だった。
けれど、私の中には、アルフェッカさえもまだ気づいていない、もう一つの狙いがあった。
「それに、どうあれ、これでこの国に反"姫"派なんて不穏な勢力は、もう二度と現れないと思うわ」
私はある種の確信を持って、断言した。
「……どういう意味?」
「今回の復活劇で、アルフェッカ。……あなたは、単なる守護精霊から、"死を克服した存在"へと大衆の中で昇華されたの。分かる? 人々は、目の前で起きた奇跡に物語を見出し、それを信じ込んだ」
私は立ち上がり、屋根のない塔の端まで歩み寄った。
「これまで、あなたはこの国を縛る、エリダヌスの首輪という軛の象徴でもあったわ。古き因習と、帝国への隷属の証。……けれど、一度死に、再び甦ったあなたは、もはやその古い文脈にはいない。あなたは、自らの意志でこの国を護り、これから再興していくヴァルゴの新しい象徴として定義し直されたのよ。……民衆の熱狂が、それを証明しているわ」
「……呆れた。あなた、そんなところまで考えていたの?」
アルフェッカが、戦慄したように目を見開いた。
彼女を"神格化"すること。それによって、"姫"という存在を否定されぬよう、ある程度の支持を得ること。それは、これから始まる帝国との総力戦において、民衆の意志を一丸にするために必要不可欠な裏付けとなる。
「帝国を打ち破るためには、一部の隙も、一瞬の迷いも許されないもの。……そのためには、この国自体を一枚岩にしなければならなかった」
私は、遮るもののなくなった広い空を見上げた。
朝日はすでに高く登り、世界を等しく照らしている。
不意に、懐の奥に忍ばせた一通の封筒の感触が、肌に伝わってきた。
それは、リゲルが別れ際、私に手渡してきた二通目の手紙。その内容を思い返しつつ、私はほんの少しだけ、目を閉じた。
(……カノンが言っていた通りね。この世界は、私が思っている以上に広くて、残酷だわ)
アルフェッカが、不安げな表情で私の背中を見つめているのが分かった。
私は、彼女を安心させるように、けれどどこか遠くを見つめる瞳のまま、小さく微笑んだ。
「……ノクティア、何を考えているの?」
「いいえ。……ただ、少しだけ、寂しくなると思っただけよ」
私はもう一度、王都の景色を網膜に焼き付けた。
グラスベルの屋敷、スピカの笑い声、ザラとの共闘、そしてこの塔で過ごした時間。
それらすべてを愛おしく思いながらも、私の心はすでに、地平線の向こう側に広がる未知の戦場へと飛んでいた。
「――私はしばらく、この国を空けることになるかもしれないから、ね」




