199話「信念の衝突」
崩落した屋根から降り注ぐ冷徹な月光と、ノクティアの背後で脈動する赤熱した硝子の翼が放つ、禍々しいまでのオレンジ色の光。二つの色彩が混ざり合い、大気は激しい熱量に歪んでいる。
――ガギィィィィィィィン!!
紅蓮の鞭と、銀色の流星。
ノクティアが振るう溶融硝子の触手と、カノンの放つ"銀の靴"の超高速の蹴撃が真っ向から激突し、そのたびに塔全体を震わせる衝撃波が広がった。
灼けた硝子の飛沫が雨のように降り注ぎ、カノンの魔力が弾けて飛び散る光の粒子と混ざり合う。その中を、二人の"姫"は互いの命を削り合うように、死の舞踏を繰り広げていた。
カノンは攻撃の手を緩めない。しかし、目の前の彼女――ノクティアという不屈の存在は、彼女から見て、異質な存在に映っていた。
自分と異なる存在に対面した時、人間の感情は段階的な変化を見せる。
――困惑。
――憤怒。
――焦燥。
「っ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! しぶといんだよ、早く倒れろよ、お前!!」
――そして、恐怖。
カノンの声には、これまでの余裕が微塵も残っていなかった。
一撃一撃が必殺の威力を誇る、残像さえ置き去りにする連続の蹴り。しかし、そのすべてを、ノクティアは自らの肉体を焼くほどの高熱で軟化させた硝子の膜で、受け流し続けていた。
紙一重で倒し切れない。その事実が、カノンの感情を煽り続けていく。
「そっちこそ……降参するなら、今のうちよ……っ!」
ノクティアの唇からは血が滲み、荒い呼吸が肺を焼く。
アルフェッカの加護を失った身体に、蓄積されたダメージが容赦なく牙を剥いている。それでも、彼女の瞳に宿る火は消えるどころか、激しさを増していた。
互いに言葉を交わし、拳を、蹴りを、魔法を交わす。
それは凄惨な殺し合いでありながら、どこか儀式的な美しささえ孕んでいた。
そんな中――不意に、ノクティアの体勢が崩れる。
その一瞬を見逃すことなく、カノンが深く沈み込んだ。
これまでの変幻自在な攻防の中で、生じた僅かな重心の揺れ。百年の経験に基づいた嗅覚にとって、それは致命的だ。
低い位置から、最短距離で顎を撃ち抜く――かち上げるような、銀の靴の全力の一撃。
――ッ!!
しかし、その一撃が空気を裂いた瞬間、カノンの背筋に冷たい戦慄が走った。
手応えがない。
ノクティアは、その蹴りを、最小限度の回避でかわしていた。
まるで、読んでいたかのように。
(――反撃が来る。誘ったな、小娘!)
カノンは瞬時に思考を切り替える。
避けた後の硬直。そこへノクティアが"硝子の翼"を叩き込んでくることを予読みし、彼女はカウンターの構えをとった。ブリキの鎧を部分展開し、相打ち覚悟でノクティアの心臓を貫く準備を整える。
いいぜ、もう一歩。あと一歩でも踏み込んできたら、そこであんたの物語を終わらせてやる。
だが。
「――あなたの背負ってきた絶望を、わかるとは言わないわ」
ノクティアの声が、静かに響いた。
彼女は、踏み込んでこなかった。
ただ、カノンのことを見据え、彼女が隙を見せるのを――その場で、待っていた。
「なっ……何をして――」
異変に気付いたカノンが、強引に距離を取ろうと地を蹴ろうとした。
だが、動かない。
彼女の脚が、まるで最初から大地の一部であったかのように、石畳に固着させられていた。
(――溶けた、硝子!? いつ間に……ッ!!)
足元を見れば、そこには赤熱したまま急速に温度を下げ、コンクリートのように硬化した硝子の溜まりがあった。
先ほどの激しい攻防の最中、ノクティアの翼から滴り落ちていた硝子の飛沫。ノクティアはそれらを無駄に散らしていたのではない。カノンの移動経路を予測し、わざと床に流し込み、この瞬間のために罠を張っていたのだ。
冷え固まった硝子が、カノンを縫い留める。
下がりたくても、下がれない。
銀の靴の出力をもってしても、瞬時に固められた超高密度の硝子の檻は、コンマ数秒の遅滞を生み出した。
そしてそのコンマ数秒は、この戦場において、生死を分かつ永遠にも等しい時間だった。
カノンは無防備な体勢を晒し、絶望に目を見開く。
そこへ、ノクティアが深く踏み込んだ。
「でもね、過去の絶望のために、これから先の未来を全部捨てようなんて……そんなの、間違ってる……!!」
ノクティアの右拳が振り上げられる。
カノンは反射的に、ブリキの鎧を纏おうとした。
けれど、驚愕に――一瞬、身が固まる。
ノクティアのその拳には、"姫"の魔力も、白熱した硝子の熱も、何一つ籠もっていなかったからだ。
それは、ただの少女の拳。
物語の"力"に頼らず、魔法という名の不条理を捨て去り、ただ一人の人間として、目の前の理不尽に異議を唱えるための、剥き出しの身体。
「お前……魔法、使っ――」
「――食らいなさいッ!!」
ドォォォォォォォォン!!
鈍い衝撃音。
ノクティアの拳が、カノンの右頬を、真っ向から、勢いよく振り抜いた。
魔力を介さないからこそ届く、肉体と肉体の激突。
その拳には、ノクティアがグラスベル領で積み上げてきた日々が、この世界への祈りが、そして"こはる"として最期に抱いた未練のすべてが、重みとなって宿っていた。
「が、は……ッ!?」
百年の月日を戦い抜き、あらゆる魔法を知り尽くした"ドロシー"の意識が、たった一発の、ただの殴打によって激しく揺らぐ。
カノンの身体が、まるで糸の切れた人形のように吹き飛んだ。
彼女は床を幾度も転がり、瓦礫に激突してようやく動きを止めた。
静寂。
あれほど激しく燃え盛っていたノクティアの背後の翼が、パリン、と乾いた音を立てて砕け散り、光の粉となって消えていった。
限界だった。
ノクティアは、その場に崩れ落ちそうになるのを、震える脚でどうにか支えた。
前方。瓦礫の山の中で、カノンが力なく横たわっている。
銀色の靴は輝きを失い、ブリキの鎧も、案山子の腕もない、素のままのカノンに戻っていた。
ノクティアは、肩で息をしながら、彼女を見つめる。
魔法で勝ったのではない。
知略で勝ったのでもない。
ただ、彼女の"諦め"に、ノクティアの意志の拳が届いただけ。
月光が、静かに二人を照らしていた。
王都の長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
ノクティアは、血の混じった唾を吐き捨て、震える声で呟いた。
「……泣くのは、今日で終わりよ」
その言葉は、絶望の物語を書き換えた、"不屈の姫"の勝利宣言だった。
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