198話「灼けた翼と銀の靴」
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星の塔の最上階を支配していた空気は、もはや夜の冷たさを完全に失っていた。
瓦礫の隙間から立ち上る熱気が、月光さえも歪ませるほどに空間を揺らしている。その中心に立つノクティア・グラスベルの背後には、赤く脈動する"溶けた硝子の翼"が、まるで命を宿した大蛇のようにうねりながら広がっていた。
「……っ、ノクティア。あんた、まさかこの土壇場で……!」
カノンは数歩後退り、驚愕と、そして隠しきれない強い警戒の色をその瞳に宿した。
彼女の脳裏をよぎったのは、かつて帝国で猛威を振るった"赤ずきん"アンタレスや、各地で悲劇を撒き散らす"姫"たちが辿る末路――"歪み"だ。
物語の均衡を自ら破壊し、人としての理性を代償に、歪んだ物語の力を引き出す禁忌の覚醒。強大すぎる力に飲み込まれ、最後には自我を失った"怪物"へと成り果てるその姿を、カノンはこの百年で幾度となく目にしてきた。
「は、はは……! あんたも結局、そうなっちゃうんだね! "姫"ってのはどいつもこいつも最後はこうさ。自分の器の小ささを呪って、力に飲み込まれて、物語の奴隷に――」
「――勘違いしないで、カノン」
ノクティアの声は、驚くほど静かだった。
けれどその声には、周囲を焼く熱気とは裏腹な、刃のような鋭い意志が宿っている。
彼女がゆっくりと右腕を振るう。それと同時に、背後でうねっていた軟化した硝子が、爆ぜるような音を立てて鞭のようにしなり、カノンの足元を打ち据えた。
――ドォォォォン!!
石畳が瞬時に赤熱し、溶け落ちる。
回避したカノンの頬を、立ち上る超高温の余波が掠めた。
「私は何も捨てない。何も諦めないし、自分の物語を曲げるつもりもないわ。……この熱は、無理やり引き出したものじゃない。……元々、私の中にあった、私自身の結末の一部よ」
「……っ、減らず口を!」
カノンは脚に力を込めた。相手が何をしたのかは分からない。だが、未知の力に対して立ち止まるのは、戦場においては死を意味する。相手の出方が変わったのなら、こちらができる最良の選択は一つ。
自分自身の最強の手札を、その上から叩きつけて粉砕することだ。
(――どうせ、ノクティアの魔力じゃこれを防ぎきれるはずがない。新しい力ごと、その細い首を蹴り潰してやる!)
カノンは銀色の靴を最大出力で輝かせ、爆発的な踏み込みを見せた。
一瞬で距離をゼロにする、超高速の旋回。
ノクティアの側頭部を目がけ、空間を切り裂くようなハイキックが放たれた。
これまでのノクティアならば、この一撃に対し、硬い硝子の壁を作って耐えようとしていたはずだ。そして、銀の靴の圧倒的な貫通力の前に、その盾は粉々に砕け散っていた。
だが、カノンの足裏に伝わってきた感触は、今までのものとは決定的に違っていた。
硬くない。
けれど、蹴り抜けない。
カノンの脚を受け止めたのは、ノクティアの首のわずか手前に展開された、赤熱する粘り気のある硝子の膜だった。
それは鋼のように弾くのではなく、鳥もちのように絡みつき、蹴りの衝撃を分散させながら、カノンの運動エネルギーをそのドロドロとした流体の中に吸収していった。
「――硝子は、本質的には液体に近い状態だと言われているわ」
至近距離で、ノクティアがぽつりと呟く。
彼女は、過熱し軟化させた硝子で、カノンの蹴りを受け止める。柔らかな表面は、莫大なまでの衝撃を吸収しきっていた。
(何……っ!? あたしの脚が……止められた!?)
驚愕するカノン。銀の靴の輝きが、粘り気のある溶融硝子に絡み取られ、その駆動を阻害されている。
そして、ノクティアは止まらない。
「――お返しよ」
ノクティアの背後で待機していたもう一本の硝子の翼が、巨大な鎌となってカノンへと振り下ろされた。
摂氏1000度を超える、白熱した硝子の塊。まともに食らえば、致命的なダメージになることは必至だった。
「チィィィッ!!」
カノンは咄嗟に銀の靴を爆発させ、強引に脚を引き抜くと、空中で無理やり身を捻ってその一撃を回避した。
溶けた硝子が通過した後の空間が、熱で赤く染まり、火花が散る。
(流石のあたしも、"銀の靴"や"ブリキの鎧"の保護なしであれに触るのはヤバい……。でも!)
カノンは着地と同時に、冷静に目の前の少女を観察した。
驚異的な火力と特性の変化。けれど、それがタダであるはずもない。
ノクティアの呼吸は、荒い。
彼女の肌は異常なほどに赤らみ、全身から立ち上る蒸気が、彼女の肉体が内側から焼かれていることを示していた。
硝子を溶かし、軟化させるほどの高熱。
それは、ノクティアの周囲にいる者すべてを拒絶する地獄の檻でもあった。
先ほどまでノクティアを支え、痛みと傷を抑え込んでいたアルフェッカの銀髪。その髪が、今のノクティアには近づくことさえできていなかった。あまりの高熱に、銀の髪が触れるそばから縮れ、燃え上がってしまうのだ。
「……あはは! そういうことかよ、お姫様!」
カノンは事態を看破し、嘲笑を浮かべた。
「あんたのその魔法、確かに凄いけどさ。……アルフェッカの加護を、自分で焼き切っちゃってんじゃないの? 痛みも傷も、全部あんたの体に戻ってきてるだろ!」
その指摘通りだった。
アルフェッカの麻酔を失ったノクティアの全身に、グリスとの戦い、そしてカノンとの攻防で蓄積されたダメージが一気に押し寄せていた。
視界は赤く染まり、一歩踏み出すごとに、自身の熱で足裏が焼けるような錯覚に陥る。
(……加えて、あの規模の熱量を維持する魔力だ。あんなの、数分も保ちやしない)
カノンは思考を巡らせる。
ここでの最善の策は"耐久"だ。
無理に攻め込まず、ノクティアが自滅するまで回避に専念すればいい。魔力が尽き、熱が収まれば、その瞬間に詰みだ。
カノンの戦士としての冷静な脳が、そう結論を出す。
しかし。
(……待てよ。あたしは今、逃げることを選ぼうとしたのか?)
カノンは、自分自身の思考に、激しい嫌悪感を覚えた。
目の前にいるのは、ボロボロで、今にも崩れ落ちそうな、自分よりも遥かに格下の、うら若き"新人"だ。
その少女が、文字通り命を燃やして、魂を剥き出しにして自分に立ち向かってきている。
それに対して、効率だの、耐久だの、そんな"つまらない勝ち方"を自分は選ぼうとしているのか?
(……ふざけんな。あたしは、"ドロシー"だ。百年前、世界を救うために戦鬼になった英雄様だぞ……!)
カノンの中で、沈んでいたプライドが激しく火を噴いた。
彼女は再び、元の姿へと戻り、銀色の靴を地面に叩きつけた。
そこには、もはや暗殺者としての効率など存在しなかった。
一人の"姫"として。かつて世界を愛そうとした一人の戦士として。
目の前の不屈の少女を、真正面から叩き潰す。それだけが、今の彼女を突き動かす衝動だった。
「いいよ、最高だよノクティア!! つまんねえ計算、あたしも止めた! あんたが命を燃やすって言うなら、あたしも、あたしの百年の執念を全部乗っけてやるよ!!」
カノンの全身から、これまでとは質の違う、凄まじい殺気が溢れ出した。
銀の靴が、限界を超えた出力を上げて白熱し、塔の床をドロドロに溶かし始める。
「逃げも隠れもしない! 正面から、あんたのその熱ごと、あたしの靴で貫いてやる!! 来いよ、お姫様!! これが、あたしたちの物語のクライマックスだぁ!!」
カノンが地を蹴った。
銀色の流星。
それに対するノクティアは、溶けた硝子の翼を大きく広げ、自身の内側から溢れ出す赤熱の奔流を一つの"槍"へと変える。
銀の光と、赤熱の焔。
二つの物語が、王都の頂上で、ついに最後の衝突へと向かって加速した。
拮抗する二人の力。
互いの意地と、百年の執念と、不退転の覚悟。
夜空を切り裂くような衝撃波が広がり、星の塔が激しく震える。
その中心で、少女たちは互いに不敵な笑みを浮かべ、自身のすべてを懸けた一撃を放つのだった。




