195話「激情と不帰」
視界が、不規則に明滅していた。
アルフェッカの銀髪が私の四肢を締め上げる感触だけが、かろうじて私が"まだ生きている"ことを教えてくれる。
けれど、その麻酔のような魔力も、蓄積しすぎたダメージを隠しきれなくなっていた。指先が震え、魔力の回路が焦げ付くような異臭が、自身の内側から漂ってくる気がした。
(……動け、動いてよ……。ここで終わるわけにはいかないのに……!)
膝を突き、荒い息を吐き出す私の目の前に、銀色の靴の先が見えた。
カノンが、死神のような足取りで、ゆっくりと、けれど確実な勝利の足音を刻みながら歩み寄ってくる。
「……っ、ハァ、ハァ……ッ!」
私は最後の一振りの魔力を絞り出し、地面に散らばった硝子の破片を再構築した。
それは無数の、けれどあまりに細い"硝子の棘"。
全方位から彼女を貫かんと放たれたそれは、しかしカノンの鼻先に届くよりも早く、彼女の指先一つで軽々と叩き落とされた。
「もー、全然駄目。見込みあるかと思ったのに。ノクティア、あんた頭硬すぎ」
カノンは、退屈そうに首を振りながら溜息を吐いた。
彼女の瞳には、先ほどまでの闘争の熱は消え、ただ、期待外れの玩具を眺めるような冷ややかな失望だけが宿っている。
「そんなんじゃ、せっかくの"シンデレラ"が勿体ないよ」
「……"シンデレラ"が、勿体ない……? どういう、意味よ……」
「言葉通りの意味だよ。あんた、馬鹿の一つ覚えみたいに物理法則だの絶縁体だの、そんな理屈ばっかり。……便利な公式を教わったのに、加減乗除だけの力技で計算しようとしてる、頭の悪い子供みたいじゃん」
カノンは私の目の前で足を止め、その場に屈み込んだ。
銀色の靴が、砕けた硝子を踏みしだく嫌な音が、静まり返った塔の頂上に響く。
「魔法ってのは、もっとこう……理屈をねじ曲げるためのもんなんだよ。あんたのはただの"工作"。……ま、もうどうでもいいけどさ。コンティニューの手間もかけさせてくれそうにないし」
カノンは興味を無くしたかのように、深く、深い溜息を吐いた。
彼女が立ち上がると同時に、その身体から蒸気が噴き出し、カチリ、カチリと金属が噛み合う不吉な駆動音が響く。
――"ブリキの木こり"。
心臓を欠いた、無慈悲な殺戮の鎧。
「さあて、どうしようかな。アルフェッカはともかく、あんたは簡単に死ななさそうだし……ま、とりあえず、再起不能になるまで、治癒不可能なくらいズタズタにしてみよっか」
鈍く光る巨大な斧が振り上げられる。
月光を反射するその刃が、私の視界を真っ二つに割ろうとした、まさにその瞬間だった。
「――カノン、あなた。……本当に、それでいいの?」
低く、けれどこの場の空気を一瞬で塗り替えるような、重みのある声。
その声が響いた瞬間、カノンの動きが、まるで見えない糸で縫い留められたかのようにピタリと停止した。振り上げられた斧から漏れる高圧蒸気が、彼女の苛立ちのようにヒューヒューと鳴っている。
「……あ゛?」
カノンの喉から漏れたのは、獣の唸り声に近い、濁りきった声だった。
彼女はゆっくりと、首だけを後ろに回して、玉座に座るアルフェッカを睨みつけた。
「思う様に暴れ回って、自分の後に来た、同じ運命に囚われた"姫"を傷付ける。……そんなことをしたくて、あなたはこの国を出たの……?」
「……あは。あはははは!」
カノンは口角を吊り上げた。
けれど、その表情は笑いとは程遠い。頬の筋肉は引き攣り、三白眼気味の瞳には、燃え盛る業火のような明らかな"怒り"が浮かんでいる。
「……なあに、アルフェッカ。随分と斬新な命乞いじゃないの。自分じゃ戦えないから、情に訴えて時間稼ぎ? 王国の守護者サマも焼きが回ったねぇ」
「命乞いじゃないわ。……ただの疑問よ。……カノン。貴女は昔、もっと真っ直ぐだった。もっと、自分の中の正義を信じていたはずよ」
アルフェッカは、椅子から立ち上がることさえせず、ただ慈悲を孕んだ瞳でカノンを見つめ返した。
「かつて、この国を焼き尽くそうとした、絶望に狂った"マッチ売りの少女"……彼女と命懸けで戦い、民を守ったあの時の貴女は、一体どこへ行ってしまったの?」
マッチ売りの少女。
その単語が出た瞬間、カノンから溢れ出す殺気が、物理的な圧力となって私を地面へと押し付けた。
踏みつけられたのだ、と理解すると同時に、ブリキの鎧が、キシ、キシと嫌な音を立てて軋む。
「……うるっせえんだよ、クソババア!」
カノンは怒りを爆発させ、石畳を蹴ってアルフェッカの元へと詰め寄った。
巨大な斧を、アルフェッカの細い首筋から数センチの距離に突きつける。
「あたしはただ、気付いただけだ! この世界に、あたしが命を張ってまで戦ってやる価値なんて、これっぽっちもねえってことによ!!」
「……そんなことないわ。貴女が守った者や、その子供たちは、今もこの街で生きている。だって、みんな必死に、貴女が残した平和を繋ごうと――」
「知るかよ、そんなもん!!」
カノンの絶叫が、塔の静寂を粉々に砕いた。
先ほどまでの飄々とした彼女の仮面は、もうどこにもない。
そこにいるのは、剥き出しの感情に振り回され、震えている、一人の孤独な少女の成れの果てだった。
「どうあがいたって、ここは、あたしの生きる世界じゃねえんだよ!!」
彼女は、斧を握る手を震わせながら、アルフェッカを射抜くように見つめた。
「……戦って、戦って、戦って……その果てに、何が残るってんだ? あたしも、お前らも、結局は、奪うことしかできねえ、壊すことしかできねえ怪物なんだって、思い知らされるだけだろ?」
「いいえ、カノン、それは――」
「――違わねえよ!」
横薙ぎにした斧から、真空の刃が放たれる。
それは、"星の塔"の外壁を滑らかに切り裂き、一文字の跡をつけた。しかし、私にもアルフェッカにも、その刃は届いていなかった。
最上階の壁と屋根が、緩やかに崩れ落ちる。露わになった夜空は、カノンの表情とは裏腹に――澄み渡っているようだった。




