194話「死角無き舞踏」
星の塔の最上階は、もはや静謐な聖域ではなかった。
アルフェッカの銀髪が私の四肢に深く絡みつき、強制的に魔力を循環させることで、爆発しそうな心臓と軋む骨の悲鳴を強引に黙らせている。彼女の加護によって、私はかろうじてカノンの攻撃を正面から受け止めるだけの、最低限の物理的な強度を維持していた。
けれど、それだけだ。
決して、拮抗しているとは言い難い。一合ごとに崩れそうになる体を、どうにか支えてもらっているだけだ。
「あはは! いいよノクティアちゃん、さっきよりずっとマシな動きだ! やっぱり、友情パワーってのはいいもんだねぇ!」
カノンの声が響いた瞬間、彼女の足元が銀色に爆ぜた。
――ドォォォォォン!!
回避は不可能。私は咄嗟に硝子の剣を盾にし、全身の重みを預けてその蹴りを受けた。
衝撃波が塔の石壁を震わせ、私の両腕を伝って全身の骨が軋みを上げる。アルフェッカの髪が私の腕を万力のように締め上げ、麻痺した神経を無理やり再起動させなければ、剣を取り落とすどころか、腕そのものがひしゃげていただろう。
(……この、輝く靴。物語のドロシーが履いていた、家へ帰るための"銀の靴"ね)
私は吹き飛ばされながらも、その閃光の残滓を網膜に焼き付けた。
一瞬の溜めこそ必要だが、発動すれば視覚すら置き去りにするだろう。グリスの雷速の踏み込みすらも超えたその速度は、そのまま破壊力へと転換される。
「おっとぉ、防御一辺倒じゃ、あたしにゃついて来られないよ!」
カノンは空中で身を翻すと、着地の瞬間にその姿を、まるで背景を書き換えるかのように変容させた。
カチ、カチリ。
歯車が噛み合うような冷たい金属音とともに、彼女の肢体は鈍い光沢を放つ重厚な装甲に覆われる。手にした巨大な斧が、重力に従って私の頭上へと振り下ろされた。
――ガギィィィィィィィン!!
私は硝子の盾を瞬時に三層重ねて展開したが、その二枚を紙細工のように粉砕して、斧の刃が目前で止まる。
重い。
先ほどの鋭い蹴りとは対照的な、すべてを押し潰すような圧倒的な物理的質量。
(……ブリキの鎧と斧。"ブリキの木こり"の力だわ。防御力と筋力に特化している……。けれど、これだけの重量を纏えば、当然機動力は死ぬはず――っ!?)
私が反撃の隙を突こうと、横へと滑り込んだ瞬間だった。
目の前にいたはずの重厚なブリキの塊が、幻のように霧散した。
背筋に走る、氷のような悪寒。
振り向こうとした私の首筋に、異常に細長く、節くれ立った"案山子の指"が音もなく迫っていた。
「残念、こっちだよ」
「……っ、この……ッ!」
咄嗟に首を傾け、鋭い爪先を回避する。
カカシ。脳を持たない案山子としての魔法。
この姿になった瞬間の彼女は、まるで意志を持たない無機物になったかのように、殺気も気配も、魔力の揺らぎさえもが完全に消失する。背後に回り込まれるまで、そこに"死"があることにさえ気づけない。
(……機動力が落ちるブリキの弱点を、このカカシの隠密性でカバーしているんだわ。捉えさえすれば、藁のようなこの形態は脆いはずなのに……。そもそも、捉えることさえさせてくれない……!)
「っ、"硝子の残灰"!」
ならばと、私は硝子の破片を全方位に散布し、気配ではなく、物理的な接触で彼女の位置を探ろうとした。
けれど、次の瞬間、散布した硝子を薙ぎ払うようにして、黄金の毛並みが視界を埋め尽くした。
「ガルゥゥッ!!」
獣の咆哮が、塔の最上階を震わせた。
"臆病なライオン"への変身。
それは、案山子の脆弱さと、ブリキの木こりの鈍重さを両方解決できる、最もバランスに優れた形だ。
しなやかな筋肉が爆発し、カノンの爪が私の硝子の防護壁を、バターでも削るように容易く切り裂いていく。
「ははっ! どうしたの、さっきから顔色が悪いよ、ノクティアちゃん!」
爪の連撃。私はアルフェッカの加護によって辛うじてその速度に反応し、硝子の剣で火花を散らしながら受け流し続ける。
(……獅子の姿。速くて、重い。けれど……。不思議ね、さっきのブリキや銀の靴に比べて、どこか踏み込みが"慎重"だわ。……そうか、これが"臆病なライオン"の本質。野生の直感ゆえに、相打ちになるような隙を本能が避けている。……そこが、唯一の付け入る隙――!)
私はあえて、喉元を晒すような大きな動作で剣を振り上げた。
誘い。
狮子の姿をしたカノンが、その喉笛を食い破ろうと一歩踏み込む。その瞬間、私は自らの身体ごと硝子の棘を突き出す――相打ち覚悟の刺突。
だが。
「あはは! 見え見えだよぉ、そんなの!」
カノンは、私の刺突が届くコンマ数秒前に、獅子の形態を解除した。
そのまま、宙に浮くような軽やかさで背後へと跳ぶ。
(――ノータイム!? 形態変化の硬直が、全くない……!)
これまで私が対峙してきた"姫"たちは、その強大な魔力に溺れ、力任せに世界を歪めていた。
"アリス・リデル"のアルゴラも、"雪の女王"アダーラも。彼女たちの強さは、物語を歪め、その人間性を犠牲にすることで得た、強大な魔法の力を振るっていただけに過ぎない。
けれど、カノンは違う。
(この女の強さは、物語の出力じゃない……。己の魔法を理解し、その一長一短を完全に把握し、一秒の無駄もなく、何千、何万回と繰り返してきた……魔法の練度――それが、桁違いなんだ!!)
ブリキで受け、カカシで消え、ライオンで追い込み、靴でトドメを刺す。
それぞれの能力の欠点を、別の変身を挟むことで瞬時に埋めていく。
それは、目覚めてから数ヶ月の私とは、積み上げてきた死の数と、実戦の質が違いすぎるのだ。
カノンは再び銀色の輝きを纏い、空中で弾かれたように加速した。
――ガァァァァァァァンッ!!
背中を壁に叩きつけられる。
アルフェッカの銀髪が私の身体を締め上げ、内臓が破裂するのを無理やり防いでいるが、私の意識はすでに混濁の淵にあった。
「分析、お疲れ様。……あたしの弱点、見つかったかなぁ?」
カノンが笑いながら、獅子の爪に戻した指先で、私の頬を優しく撫でた。
そこから流れる鮮血が、彼女の金色の毛並みを汚していく。
回避、防御、反撃の隙を探る――。
私の思考が一つ組み上がるたびに、カノンの次の手が、それを嘲笑うかのように上書きしていく。
分析しても、意味がない。
答えを知っていても、その速度に身体が、魔法の構築が追いつかない。
これが、百年の時を戦い抜いてきた、歴戦の"姫"。
「……あ、あぁ……っ……」
遂に、私の膝が重苦しい音を立てて石畳を叩いた。
アルフェッカの髪が、私の全身を支えようと激しく輝くが、受け入れ側の私の肉体が、もう限界を訴えていた。血管は悲鳴を上げ、魔力の回路は過熱して焦げ付くような痛みを脳に送っている。
視界が、真っ赤に染まる。
目の前には、ゆらりと、けれど確実な死の結末を携えて歩んでくるカノンの影。
彼女は再び、元の姿に戻り、銀色の靴の踵を、優雅に、そして残酷に鳴らした。
「……終わりだよ、お姫様。あんたの物語は、ここでページが閉じられるんだ」
カノンが短剣を逆手に持ち替え、私の喉元へ向けて最後の一歩を踏み出す。
私は膝をついたまま、震える手で地面を掴み、なおも抗うための光を探していた。
けれど、視界は次第に黒く染まり、アルフェッカの銀髪の輝きさえも、遠く霞んでいく。
何か。
何かしなければ、ここで終わってしまう。
焦燥が、私の胸を掻き毟った。




