193話「銀糸の鎧」
空気が凍りつくような沈黙は、カノンの一歩によって無残に粉砕された。
彼女の足元、あの銀色の靴が月光を吸い込んで凶悪な輝きを放ったかと思うと、次の瞬間にはカノンの姿が私の網膜から消失していた。
(――来るッ!!)
思考よりも早く、身体が左へと跳ねる。
直後、私が一瞬前まで立っていた空間を、空気を爆ぜさせるほどの凄まじい蹴りが通り過ぎた。
私は反射的に硝子の防壁を展開しようと魔力を練ったが、踏み込みを終えたカノンが着地と同時に不敵な笑みを浮かべるのを見て、指先を凍りつかせた。
カノンは止まらない。
外した蹴りの勢いをそのままに、彼女は独楽のように身を翻し、二撃目の回し蹴りを繰り出す。その軌道は、私の構築し始めた防壁を真正面から粉砕することを前提とした、暴力的なまでの質量を伴っていた。
(防げない……! 私の出力じゃ、盾ごと肉塊にされる!)
私は防壁の構築を強引に中断し、その魔力をすべて足裏の"硝子の靴"へと転換した。摩擦を殺し、滑るように背後へ退避する。私の鼻先数センチを、カノンの銀の靴が暴風を伴って通過していった。
「おっとぉ、逃げ足だけは一丁前じゃん!」
カノンの追撃は止まらない。
空振ったはずの彼女の身体が、不自然な金属音を立てて静止した。
瞬間、彼女の衣服の下から鈍い銀色の光沢が染み出し、重厚な"ブリキの鎧"がその身を覆う。
「――っ、ここよ!」
私は回避の勢いを利用し、手に生成した硝子の細剣で、カノンの無防備に見える脇腹へと刺突を放った。全魔力を一点に集中させた、岩をも穿つ一撃。
だが、その手応えは最悪だった。
硝子の剣先は、カノンが纏ったブリキの装甲に触れた瞬間、火花を散らして滑った。致命傷はおろか、傷一つ付かない。金属特有の重苦しい音とともに、私の腕に激しい痺れが走る。
「そんな細い針じゃ、あたしの心臓には届かないよぉ!」
蒸気を吹き出しながら、カノンが巨大な斧を横薙ぎに振り払った。
石造りの床を削りながら迫る刃。私は跳躍してそれを回避したが、空中で姿勢を崩した私を、カノンは見逃さなかった。
彼女の姿が、再び霧のように視界から消える。
(どこ……!? 上? 下!?)
周囲を見回そうとしたその時、背後から音もなく、異常に細長い、案山子の腕が伸びてきた。
それは蛇のように私の首に巻き付こうとし、枯れ草のようなざらついた感触が項を撫でる。
反応が遅れた。
アルフェッカの麻酔で鈍っていたはずの恐怖が、氷のような冷たさで脳を焼く。
カノンの指が、私の喉笛を括り殺そうとした、その刹那――。
「――ノクティア、油断しちゃ駄目!!」
背後で、アルフェッカの鋭い叫びが響いた。
同時に、私の視界を銀色の奔流が埋め尽くす。
アルフェッカの長い銀髪が、意志を持つ鎖となってカノンの案山子の腕を、そして彼女の胴体を幾重にも縛り上げたのだ。
「ぐ、ぅ……ッ!?」
カノンの腕が、私の首の数ミリ手前で強引に引き戻される。
私はその隙に転がるようにして距離を取り、荒い息を吐きながらカノンを、そして彼女を抑え込むアルフェッカを振り返った。
アルフェッカの髪は、塔の床や天井から無数に伸び、カノンを空中に吊り上げるようにして拘束していた。銀の糸が軋み、凄まじい力がぶつかり合っているのが分かる。
「……っ、ノクティア、よく聞いて。今のあなたじゃ……絶対に、カノンには勝てないわ……!」
アルフェッカの声は、苦悶に満ちていた。
彼女の白い肌には、カノンの放つ不気味な魔力の毒が逆流しているのか、紫色の血管が浮き出ている。
「彼女は"姫"として完成している。純粋な魔法の出力でも、戦闘の経験値でも、覚醒して日が浅いあなたとは格が違いすぎるの」
「分かってる……。でも、だからって見捨てるわけにはいかないわ!」
「ええ、そうね。……私も、私はまだ、ここで死ぬわけにはいかない……! たとえ、かつての同胞をこの手で葬ることになっても……!」
アルフェッカの瞳に、"姫"としての峻烈な意志が宿る。
「私が可能な限り、彼女の"不条理"を抑制してサポートするわ。だから、ノクティア。……カノンを、止めて。これ以上、彼女に悲劇を積み上げさせないで……!」
私は力強く頷いた。
アルフェッカが命を削って作ってくれた、絶好の好機。
私は両手に巨大な硝子の棘を生成し、拘束されたままのカノンの胸元へと向けて放った。
「――堕ちなさい、カノン!!」
硝子の棘が、カノンを貫こうとした、その時。
「あはは……! なーにヒロイックに浸ってんだよ、アルフェッカぁ!!」
カノンの身体が、急激に膨れ上がった。
衣服を引き裂き、銀色の拘束を内側から爆砕するようにして現れたのは、黄金の毛並みを湛えた、猛々しい獅子の姿。
――バリィィィィィィン!!
アルフェッカの髪が千切れ、カノンは自由を取り戻すと同時に、鋭い爪の一振りで私の放った硝子の棘を粉々に叩き落とした。
「あんたもあたしと同じ穴の狢……人々に崇められ、あるいは恐れられ、物語の中に閉じ込められた"姫"だろうがよ!」
獅子の咆哮が、塔の最上階を震わせる。
カノンは四足で石畳を蹴り、弾丸のような速度で私へと肉薄した。
「あんたが善意の守護者面して、この新しいお姫様に肩入れするのが、一番吐き気がするんだよ! 守る? 導く? 笑わせんな! あたしたちがやってるのは、いつだって奪い合いだろうが!」
「――っ、くっ!!」
迫る爪。私は手にした硝子の細剣を盾にし、全身の体重を乗せて受け止めた。
重い。
グリスの拳とは違う、鋭利で、執念深い重さが私を押し潰そうとする。
私の足元、石畳がメキメキと音を立てて砕け、膝が地面に着きそうになる。
「ノクティア、力を貸すわ!!」
その時、私の身体に巻き付いていたアルフェッカの銀髪が、太陽のように眩い輝きを放った。
痛みと疲労を抑え込んでいた麻酔の糸が、今度は強化の触媒へと変質する。
熱い。
アルフェッカの莫大な魔力が、私の回路へと強引に流れ込んできた。
血管を熱い鉄が流れるような感覚。けれど、それと同時に、震えていた腕に鋼のような剛力が宿る。
「……あ、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
私は渾身の力を込め、押し込まれていたカノンの爪を真っ向から押し返した。
銀光と虹色の火花が散り、ノクティアと獅子姿のカノンは、互いの力を拮抗させたまま、至近距離で睨み合う。
「……へぇ。守護者サマの加護、フルブーストってわけ? 面白いじゃん、ノクティア」
カノンの獅子の瞳に、狂気的な悦びが灯る。
「いいよ、最高だよ。これなら、あたしの"物語"の終盤を飾るに相応しい舞台だ!」
「……ええ。私も、もう退くつもりはないわ。あなたのその歪んだ物語、私がここで全部、ぶち抜いてあげる!」
アルフェッカの銀髪を棚引かせ、虹色の魔力を爆発させる私。
それに対するは、物語の全てを呪いに変えたカノン。
塔の頂上、星に近い場所で。
二人の"姫"と一人の"守護者"の運命が、激しく激突しようとしていた。




