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192話「愉悦の"姫"」


 私がその名を口にした瞬間、塔の最上階を支配していた空気が、冷たい硝子に(ひび)が入るような音を立てて凍りついた。


 私の出した答えに、カノンの肩が微かに震えた。


 恐怖か、あるいは動揺か。そう思った私の予測は、直後に響いた、肺の底から絞り出すような"笑い声"によって無残に裏切られることになる。


「あは、あははははは! あははははははははは!!」


 カノンは腹を抱え、狂ったように笑い出した。


 その笑い声は夜の静寂を切り裂き、塔の石壁に反響して不気味な不協和音を奏でる。彼女は涙を拭うような仕草をしながら、歪んだ、けれど心底楽しそうな瞳で私を射抜いた。


「こーんなに早く気づくなんて、流石だね、ノクティア! 噂以上のキレ味だよ。楽しみにしてたんだ、『グラスベルの令嬢が、とびきり活きのいい"姫"として目覚めた』って聞いてさぁ!」


「っ……噂だけで、そこまで確信していたの?」


「いいや? でも、そうだといいなと思ってた! だって、あたしの"遊び"に付き合える奴なんて、そうそういないんだもん! まさか、ただの温室育ちのお嬢様が、あたしの能力(ルール)を看破するなんてさ。あんた、最高の"隠し要素(エキストラ)"だよ!」


 カノンは再び、足元の銀色の靴を激しく打ち鳴らした。


 キィィィィィィィン、という耳障りな高周波の音が響き、彼女の周囲に物理法則を無視した突風が吹き荒れる。


「……っ、させないわ! "硝子の戒め(ステンド・シャックル)"!」


 私は残された魔力のすべてを床へと叩きつけた。


 カノンの足元から、鮮やかな色彩を編み上げたような硝子の鎖が猛烈な勢いで伸び、彼女の両足、そして胴体を幾重にも拘束しようと絡みつく。


 だが。


 ――バリバリバリィィィィィン!!


 耳を劈く破壊音。


 カノンは魔法を使うでもなく、ただその肢体に込められた絶大な"膂力"だけで、私の最高強度の拘束魔法を引き千切った。飛び散る硝子の破片が彼女の頬を掠めて赤い線を引くが、彼女はそれを気にする素振りさえ見せない。


「へへっ、筋は悪くないじゃん。やっぱ、()るなら"姫"だよなぁ! あたし、弱い者イジメって嫌いなんだよ。手応えがないと、攻略(クリア)した時に虚しいじゃん?」


「――っ、何が、そんなに楽しいのよ。……命を懸けてるのに……!」


 私の震える声に、カノンは小首を傾げて、子供のような無垢な残酷さを浮かべた。


「戦うのが、だよ! ノクティア、あんたも聞いたことない? 強い敵を倒したら、次はもっと高い難易度(ハード)へ、その次はもっと理不尽な設定(ベリーハード)へ……。最後には、一撃掠めただけで死ぬような地獄(ナイトメア)へと挑みたくなる。……そうでしょ?」


「……なら、今日は見逃してくれない? 私、見ての通りボロボロなんだけど」


()ーだね! 甘えんなよ、ノクティア。すべての"姫"には平等に物語の力が与えられてる。この世界において、あたしとあんたの持つ"物語の力"……その根源の価値は、完全に等しいもんなんだよ」


「私とあなたの力が……同じ?」


「そう。だから、お前は本来、あたしと同格の(ボス)なんだ。同格の相手に勝つために、搦め手を使い、消耗させ、策を講じる。……それに何の問題がある? むしろ、最高のリスペクトだと思ってほしいね」


 カノンの言葉は、完全に壊れている。


 けれど、その狂気の中には、この世界の残酷な真理を突いた鋭さがあった。


「お前が弱いのは、お前のせいだよ、ノクティア。……さあ、とっとと立て直し(コンテニュー)しろよ。あたし、ずーっと待ってんだけど?」


 好戦的な笑みを浮かべ、カノンが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その殺気に、私の身体を支えていたアルフェッカの銀髪が、怒りに震えるように逆立った。


「……相変わらずね、カノン。いえ、変わってしまったのかしら。かつての貴女なら、こんな風に他人の無力を嘲笑い、卑怯な手を打つことはなかったはずよ」


 アルフェッカの冷徹な声が、塔の静寂を切り裂いた。


 カノンは歩みを止め、面白くなさそうに頬を膨らませた。


「卑怯だなんて、傷つくなぁ! 狡猾って言ってよ、狡猾って! ……ノクティア、騙されちゃ駄目だよ。こいつ、若作りしてるけど、中身はあたしとおんなじ……もう百年以上、この腐った世界で生きてるんだから!」


 私は、思わずアルフェッカを振り返った。


 百年。アルフェッカが、この国の守護者として君臨してきた年月。それは、この目の前の彼女が歩んできた年月と同じだというのか。


「アルフェッカ……彼女のことを、知っているの?」


「ええ……知っているわ、ノクティア。貴女にも話したでしょう? かつて、この王国ヴァルゴに現れ、そしてある事件を境に姿を消した、"もう一人の姫"の話を」


 私の背筋に、冷たい電流が走った。

 王都の歴史の影に埋もれた、悲劇の姫。


 クーデターを画策し、当時の大臣たちを惨殺し、王国を壊滅寸前まで追い込んだ末に、消えたはずの――。


「……それが、彼女なの?」


「いやーん、アルフェッカぁ! 勝手に昔のこと話さないでよぉ、恥ずいじゃん。若い頃の失敗談とかさぁ、掘り返すもんじゃないよ?」


 カノンは戯けたようにしなを作り、ふざけた調子を崩さない。


 けれど、その直後。彼女の瞳から温度が完全に消失したのを、私は見逃さなかった。


「……あたしは、帰りたかっただけなんだ。あのアホみたいに広いカンザスの平原に。白黒の、つまんない、でもあたしの家がある世界に。……でも、この世界(オズ)の連中は、あたしを返してくれなかった。戦いの愉悦に沈むことも許さなかった。……だからさ、あたしはエメラルドの都(このせかい)を全部ぶっ壊してやろうと思ったんだ」


 カノンの背後に、ドロシーの物語には存在しない、ドス黒い殺意の渦が見えた気がした。彼女は、不帰に囚われた悲劇の権化。救済を拒まれ、物語の結末を奪われた末に、世界を呪う怪物へと成り果てた"姫"の成れの果てだ。


「――アルフェッカ、もういいじゃんか。散々生きて、わかっただろ? この世界に、意味なんて無いんだよ」


「……っ、私は」


 カノンは道化の仮面を完全に捨て去り、地を這うような低い声で吐き捨てた。彼女の手にある短剣が、月光を吸い込んで禍々しく黒光りする。


 そんな彼女に対し、アルフェッカは声を詰まらせる。変わり果てた友に、かけるべき言葉を失ってしまったかのように。


 そのやり取りの末は、激昂と怒号だった。殺意を帯びた銀の輝きが、さらにその強さを増す――。


「――もう、ごちゃごちゃ言わずにかかってこいよ、それか、早よ死ねっての。……あんたらの"物語"が、本物かどうか、あたしが鑑定してあげるからさぁ!!」


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