191話「帰れなかったドロシー・ゲイン-後」
カノンの身体を覆ったのは、レトロで武骨な、けれど一目でそれと分かる"ブリキの鎧"――胸部に大きな空洞が空いた特徴的な意匠は、それでも、頑健さを思わせる。
先ほどまでの軽やかさは消え、一歩踏み出すごとに塔の床が沈み込み、激しい金属音が響き渡る。関節部からはシュゥゥッ、と凄まじい熱量を持った高圧蒸気が絶え間なく噴き出し、周囲の温度を急上昇させていく。
カノンは手にした、自身の背丈ほどもある巨大な斧を、重力に身を任せるままに振り下ろした。
「――おらぁッ!!」
空を断つ重低音。回避は不可能。
私は逃げ場を失い、全魔力を込めた硝子の細剣を十文字に交差させてそれを受け止めるしかなかった。
――ガギィィィィィン!!
凄まじい質量。そして物理的な圧力。
私の腕の骨がミシミシと軋みを上げ、足元の石畳が彼女の斧の重圧で粉々に砕けていく。アルフェッカの麻酔がなければ、私はこの瞬間にショック死していただろう。カノンは力任せに、一切の慈悲もなく斧を押し込んでこようとする。
私は硝子の表面を極限まで滑らかにし、摩擦をゼロに近づけることで、その破壊的な力を強引に横へと逸らした。
ドォォォォン!!
逸れた斧が床に深く突き刺さり、塔全体を巨大な地震のような震動が走る。
と同時に、カノンの鎧の隙間から、視界を完全に白く塗りつぶすほどの高圧蒸気が一斉に噴射された。
「……っ、前が見えない……! アルフェッカ!」
「……ダメよ、熱源が多すぎて探知できないわ!」
熱い霧が塔の最上階を埋め尽くす。
その視界不良を切り裂いて、再び殺意が迫りくる。
蒸気を切り裂いて飛び出してきたのは、先ほどの重厚なブリキの怪物ではなかった。
それは、全身に金色の剛毛を蓄え、夜の闇に二つの金色に輝く瞳を光らせる、猛々しい"獅子"の姿をしたカノンだった。
かつて、連邦でギエナが変身した、あの硝子の獅子を思い出す。
だが、カノンの変身はそれよりも遥かに生物としての密度が高かった。
しなやかな筋肉の躍動、剥き出しの牙から漏れる荒い呼吸、そして石畳を容易く引き裂く鋭利な爪。
「ガルゥゥッ!!」
獣の咆哮とともに、カノンが影を置き去りにして跳躍した。
私は咄嗟に自身の周囲に"嬰児の檻"を展開して籠城を図ったが、獅子の爪は一撃でその表面を深々と削り、二撃目で粉砕した。
硝子の破片が吹雪のように舞い散る中、私は獅子と化したカノンと至近距離で対峙する。
爪が私の胸元を掠め、ドレスを、そして皮膚を浅く切り裂く。
私は防戦一方に追い込まれ、防護壁を刹那の間で構築し、壊され、また直すという、終わりなき地獄のような消耗戦を強いられていた。
(……強い。格が、違いすぎる……!)
脳が悲鳴を上げ、魔法の構築精度がみるみるうちに落ちていく。
アルゴラの時は、ミラクという相棒がいた。
アダーラの時は、リゲルが運命を切り拓き、私を救ってくれた。
けれど、今の私はたった一人。
アルフェッカを守りながら、この絶望的な戦力差を埋める手段を、私は持っていない。
一歩、大きく距離を取る。
カノンもまた、攻撃の手を休め、四足歩行の姿勢からゆっくりと元の人間の姿へと戻っていった。
彼女の額には汗一つなく、息切れすらしていない。
一方で私は、アルフェッカの髪に支えられていなければ、今この瞬間にでも、崩れ落ちるだろう。
「……ふぅ。やっぱり、ノクティアちゃんはいいリアクションしてくれるねぇ。あたし、あんたのこと結構気に入ってるんだよ? だから、あんまり痛い思いはさせたくないんだけどなぁ」
戯けるようにして肩を竦め、ゆったりとした足取りで歩み寄ってくるカノン。
その一歩一歩が、逃げ場のない死の宣告のように、私の精神を摩耗させていく。
「ノクティアちゃんさあ、もう諦めちゃってもいいと思うよ? あたしとの力量差、この数分でもう、痛いほどわかっちゃったでしょ? 魔法のバリエーションも、純粋な身体能力も、あんたじゃあたしに届かない」
「……はぁ、はぁ……っ……」
「あんたがここで退けば、アルフェッカの首だけで済ませてあげる。あんたまでここで無駄死にすることはないんだよぉ? 強情張るなよ、死んじまうぞ、あんた」
カノンの言葉は、本物の忠告のように、あるいは慈悲のように響いた。
彼女は、私の死そのものを目的としているわけではない。ただ、目の前の不確定要素を排除し、淡々と依頼を遂行しようとしているだけだ。
その、他人の命を数字としてしか扱わない、圧倒的で無機質な合理性が、何よりも私の心を挫こうとしていた。
「……ご生憎様。私、諦めだけは、前世の頃……ずっと昔から、最悪に悪いのよ」
「……あはは、前世って。何言ってんだお前、"生前"の間違いだろ」
「死なないし、殺させない。……それにね、カノン。私は、ただ殴られ続けていたわけじゃないわ。あなたのその、滅茶苦茶な"変身"の数々……」
私は、折れそうになる膝に力を込め、剣を真っ直ぐに構え直した。
アルフェッカの髪を通じて、私の脳は加速し、カノンが繰り出した四つの現象を、一つの線で結びつけていた。
踵を鳴らす銀の靴。
藁のように伸びる手足。
心臓を欠いたブリキの鎧と斧。
そして、臆病な獅子の姿。
それらのパズルが、私の脳内で一つの題名へと結びついた。
彼女の魔法の根源となっている物語。
恐らく、それは――。
「……あなたの魔法の正体、完全に理解したわ」
「へぇ? 面白いね、言ってみてよ」
カノンは足を止め、興味深そうに首を傾げた。私は、一歩踏み出し、確信を込めてその名を告げた。
「あなたは、ドロシー・ゲイン。……竜巻に巻き込まれ、故郷に帰るためにエメラルドの都を目指した、迷い子の少女。……そうでしょ?」
その瞬間。
カノンの顔に今日一番の、愉悦の笑みが浮かぶのだった。




