191話「帰れなかったドロシー・ゲイン-前」
星の塔、最上階。
王都を包む夜風が、蹴破られた扉から冷たく吹き込み、室内の豪華なカーテンを激しくなびかせていた。眼下には銀髪祭の松明の光が海のように広がっているはずだが、今の私にそれを見下ろす余裕はない。
つい数刻前、伝説の怪物である"雷帝"グリスを、ザラとの死闘の末に封印したばかりの私の身体は、すでに物理的な限界をとうに越えていた。
脇腹は焼け付くように痛み、ドレスの隙間からは絶えず熱い血が滴り落ち、歴史ある石畳をどす黒く汚していく。視界の端がチカチカと明滅し、脳が強制的にシャットダウンしようとするのを、私は奥歯が砕けるほど噛み締めて繋ぎ止めていた。
「……っ……はぁ、はぁ……」
目の前に立つのは、カノン。
かつて街の酒場で、まるで年の離れた姉妹のように軽口を叩き合った、あの気さくな女性の面影はどこにもない。月光に照らされた彼女の黒い瞳には、慈悲も、情愛も、そして自身の目的への迷いすらも存在しなかった。
そこにあるのは、研ぎ澄まされ、手入れの行き届いた一振りの凶器としての純粋な機能美。
(……勝てない。今の私じゃ、一秒だって保たない)
震える手で硝子の細剣を握り直すが、指先まで力が伝わらない。剣先が小さく弧を描いて揺れる。ザラは中庭で力尽きているし、近衛騎士団を呼び戻す余裕など一秒たりともない。私一人で、この"最悪"を食い止めなければならないのだ。
共闘すべきアルフェッカは、この塔の魔法的な心臓部そのものだ。彼女を戦線に引きずり出し、魔力を消耗させれば、それはそのまま、彼女のリスクに直結する。それはカノンの、そして彼女を雇った反"姫"派の、もっとも望むチェックメイトの形だ。
(どうする……。どうやって、この時間を稼ぐ……!? 何か、物語の中に逆転の糸口は……!)
絶望が黒い泥のように心に溜まったその時、私の手足に、ひんやりとした、けれど刺すような冷感が走った。
見れば、背後に控えていたアルフェッカの銀色の長い髪が、意志を持つ生き物のように私の手首や足首、そして脇腹の深い傷口に優しく、けれど強固に巻き付いていた。
「……っ、アルフェッカ、これ……!?」
「勘違いしないで、ノクティア。傷が治ったわけじゃないわ」
アルフェッカの声は、どこか遠くから響くような、無機質な透明感を持っていた。
「私の髪を介して、あなたの痛覚を一時的に遮断し、脳内に過剰な魔力を直接流し込むことで疲労を取り除いているだけ。……言うなれば、魔法を使った麻酔よ。ダメージは確実に、あなたの肉体の中に蓄積し続けている。……無理をすれば、戦いが終わった瞬間にあなたの心臓は止まり、身体は砂のように崩れるわ」
「……十分よ。ありがとう、アルフェッカ。動けるなら、今はそれでいい」
銀の髪が皮膚に食い込むたびに、泥沼のようだった身体が嘘のように軽くなっていく。
死を先送りにした、万能感じみた虚飾。
私はその冷たい活力を心臓に叩き込み、再びカノンを、その歪な喉元を正面から見据えた。
「準備おっけ〜? そんじゃ、始めるよ!」
場違いなほど、気の抜けたカノンの声。
それが、殺戮の演目の開始を告げるベルだった。
パチン、と彼女がその場で踵を鳴らした。
その瞬間、カノンの履いている、鈍い光沢を放つ"銀色の靴"が、夜の闇を物理的に切り裂くような強烈な輝きを放った。
(――消えた!?)
思考が追いつかない。
先ほどのグリスが見せた、大気を震わせる雷速の踏み込みとは異なる。カノンの動きには予備動作も、空気の抵抗もなかった。ただ"ここにいた"という事実が"あそこにいる"という結果に、一瞬で書き換えられるような超高速。
瞬きをする間に、彼女は私の眼前に到達していた。
「まずは、挨拶代わり!」
放たれた蹴りが、空気を爆ぜさせる。
私は反射的に、幾重にも重なる積層硝子の盾を生成したが、カノンの靴の爪先が触れた瞬間、それはまるで薄い砂糖細工のように容易く、粉々に砕け散った。
「――っ、がはっ!!」
腹部を貫く、内臓を直接握り潰されるような衝撃。
硝子のドレスが衝撃を分散させ、アルフェッカの麻酔が苦痛を遠ざけているはずなのに、私の身体は砲弾のように塔の反対側へと吹き飛ばされた。
背後にある重厚な本棚が粉砕され、歴史ある古文書が雪のように舞い散る。
「あはは! まだまだ、これからだよぉ!」
壁に叩きつけられた衝撃で視界が激しく揺れる中、私はどうにか受け身を取って立ち上がろうとした。だが、舞い散る紙片の向こう側に、カノンの姿はすでに消えていた。
音もなく、気配もなく、彼女は塔の影へと溶け込んでいた。
「――っ、ノクティア、後ろよ!!」
アルフェッカの悲鳴のような鋭い警告。
私の思考が反応するよりも早く、銀の髪に強制的に操られた私の身体が前方に大きく跳躍した。
ズォォッ!!
一秒前まで私の首があった空間を、鋭利な刃物のような、けれど乾いた何かが一閃した。
転がりながら振り返った私の目に映ったのは、もはや人間の解剖学を完全に無視した異形の光景だった。
数メートル離れた位置に立つカノンの肩口から、奇妙なほどに細長く、節くれ立った"案山子の腕"が、蛇のように長く伸びていたのだ。その表面は粗末な藁で編まれているように見えるが、その一振りは石柱をも容易く両断する威力を秘めている。
(何、あれ……人間じゃない。まるで、藁で作られた人形……)
その手足は、骨格や関節という概念を嘲笑うように不自然な角度でうねり、再び私を絡め取ろうと追撃してくる。
回避、回避。
硝子の剣でその藁の腕を切り裂こうとするが、切った端から新しい藁が編まれ、再生していく。
気配も、魔力の揺らぎも感じさせないまま死角へと回り込み、さらに射程を自在に変えるその攻撃。まるで、実体のない幽霊と戦っているかのような感覚に陥る。
「あら、避けられちゃった。……じゃあ、次は"重たい"ので行くね!」
カノンが細長い腕を強引に引き戻すと同時に、彼女の全身から"カチリ"という金属的な駆動音が響き、その肌が鈍い金属光沢に包まれていった。




