190話「違和感」
嵐が去った後のような、耳が痛くなるほどの静寂が王宮の中庭を支配していた。
視線の先には、不敵に笑ったままの姿で透明な硝子の中に閉じ込められた巨神、グリス・トール=レオンテスの像が月光を反射して冷たく輝いている。
「はぁ、それにしても、どうにか凌ぎきった……のね」
私は膝をつきそうになるのを、震える脚でどうにか堪えた。
全身の魔力を使い果たし、指先一つ動かすのも億劫だ。視界の端では、生き残った近衛騎士たちが、力なく倒れた同僚たちの救助を始めている。
傍らには、銀色の残光を僅かに身に纏ったまま、壁に寄りかかるザラの姿があった。
魔法の力に目覚めたとはいえ、彼女の身体はボロボロだ。肩の裂傷に加え、グリスの打撃による内出血も酷いはず。それでも彼女は、折れた剣の柄を握りしめたまま、鋭い眼光を周囲の闇へと向けていた。
「お嬢様、油断しないでください。まだ、対"姫"装甲を纏った残党が……」
「わかってるわ。……でも、あいつらはグリスのような化け物じゃない。近衛騎士団の予備戦力が到着すれば、十分に撃退できるはずよ。……ひとまず、一息吐かせて」
私は額の汗を拭い、荒い呼吸を整える。
計画の第一段階……アルフェッカの死を偽装し、グリスという"最大の暴力"を釣り上げ、これを封殺する。ここまでは、私の描いた、ハッピーエンドへの筋書き通りだ。
けれど、喉の奥に小骨が刺さったような不快感が、どうしても拭えなかった。
気になることは山ほどある。しかし、その前に、ザラに聞いておきたいことがあった。
「それにしても、ザラ。あなた――」
私は、痛む脇腹を抑えながら彼女を見上げた。
気になっていたのは、彼女が先ほど纏った、あの銀色の魔法だ。
私のブローチの中に眠る、スピカの欠片。あの日、レグルス砦で彼女が消える直前に残した硝子の破片が、ザラの危機に呼応して彼女に力を貸した。
あれは一体、何だったのだろうか。
私の魔力と、ザラの意志と、スピカの想いが混ざり合って起きた、一度きりの奇跡なのか。
「……わかりません。あたしも、何が起きたのか正確には。……ただ、突然あの子の声が聞こえたんです。そうしたら、身体の痛みが消えて、力が溢れてきて……」
ザラの声は、いつになく穏やかだった。
私は首元のブローチをそっと手に取る。
砦で死んでしまった彼女の魂は、まだこの冷たい欠片の中に、私たちを見守るように宿っているのだろうか。
「……そう。まあ、いいわ。とにかく、明日またゆっくり話をしましょう。今はひとまず、"星の塔"に戻って、アルフェッカを――」
そこまで口にしたところで、私の思考が、ある一点で不自然に停止した。
違和感。
パズルのピースが一つだけ、全く違う絵柄のものが混じっているような感覚。
脳裏にリフレインしたのは、かつて街の酒場で出会った彼女――カノンが、いたずらっぽく口にしていた言葉だった。
『もしかすると、今年の"銀髪祭"……少し楽しくなくなっちゃうかも』
彼女は何故、そんなことを口にしたのか。
まるで、これから起こる"悲劇"の内容を知っているかのような、あの不気味な余裕。
あの時点では、私もアルフェッカも計画には気付いていなかった。それこそ、シャウルが情報を掴んでこなければ、明るみに出なかった可能性だってあったのだ。
それに、グリスが最後に、封印される寸前に見せた、あの狂気的な笑み。
『……ふん、まあいい。祭りはまだ、これからだ――』
(……これから? 暴力の化け物であるグリスを倒して、祭りが終わるんじゃないの……?)
暗殺。死の偽装。狼少年。
私の策は完璧だった。
けれど、もし――。
もし、グリスそのものが、さらなる"最悪"を隠すための巨大な陽動だったとしたら?
「――まさか!!」
「お嬢様!? どこへ行くんですか!」
背後で叫ぶザラの声を振り切り、私は全速力で駆け出した。
足の痛みも、魔力の枯渇も、今の私には関係なかった。脳内を埋め尽くすのは、冷や汗が出るほどの"読み落とし"への恐怖。
私が向かったのは、広場の奥にそびえ立つ"星の塔"。
アルフェッカが、一人で待っている場所。
一足飛びに螺旋階段を駆け上がる。心臓が早鐘を打ち、肺が焼けるように熱い。
最上階。重厚な扉の前に辿り着き、私はそれを蹴破るようにして開け放った。
「アルフェッカ!!」
室内には、月の光を浴びながら椅子に腰掛ける銀髪の守護精霊がいた。
彼女は驚いたように、けれどどこか「やはり来たか」と言いたげな表情で目を丸くしていた。
「――ノクティア。来たのね。……思ったより、早かったわ」
「ええ、アルフェッカ。……まさか、あなた、気が付いていたの?」
「全部じゃないわ。だけど、"あの子"なら……こういう時にこそ、一番あの子らしいやり方を選ぶだろうと思っていたから」
その言葉と同時に、背筋を凍らせるような、剃刀のような殺気が私のうなじを撫でた。
反射。
私は考えるよりも先に、残った僅かな魔力で硝子の剣を右手に生み出した。
一閃。振り返り様に、真後ろの空間を横薙ぎに斬り払う――!
――ガギィィィィィィン!!
「お、気付いたんだぁ。……やっるぅ、お姫様!」
私の剣は、背後から迫っていた漆黒の刃と火花を散らしてぶつかり合った。
そこには、影の中から染み出してきたかのような身軽さで、黒髪を揺らす女が立っていた。
「――やっぱり、あなたなのね、カノン!!」
「あはは、何がだよ。主語も述語もねえぞ。……でも、正解。おめでとう、ノクティアちゃん」
カノンは、月光を浴びて邪悪な、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべた。
彼女の手にあるのは、光を吸い込むような不気味な短剣。
「グリスはただの前座。あのじいちゃんが暴れて、みんなの視線が中庭に釘付けになっている間に……あたしが"本命"を頂く。それが、一番スマートなやり方でしょ?」
塔の上。
夜風が吹き抜ける静寂の空間で、私は愛憎入り混じる瞳でカノンを見据える。
「……アルフェッカは、殺させない」
「あはは! 主語と述語、出たね。……いいよ、お姫様。あたしとあんたの、今夜最後のダンス、踊り明かそうか!」
"銀髪祭"の夜、本当のフィナーレが、今、最悪の形で幕を開けようとしていた。




